は、日本に來られたと云ふ傳説があるが、是れは少しく疑はしいことゝ思ふが、當時のことであるから何人かが、其の手に成つた大日經を、日本に持ち來たことゝ思はれる、しかし、三論や法相など在來の宗派の所依の經典とは、違つて、如何にも、梵語が澤山あり、印度の、風俗などの事も、會得せねば、了解し難き所もある、故に渡來はしても、又一應讀むものがあつても、徹底して、了解することが出來ぬから、自然興味が生ぜず、放任すると云ふ工合であつたが、流石に、大師である、一讀して、難解の書であると同時に、日本では、誰も就きて學ぶ人もない、しかし、是れこそ、吾が年來求めて居つた經典である、これが意義闡明したいものであるとと云ふが、大師入唐の動機である、やうに窺はるゝが、しかし、大師入唐の動機は、これのみではあるまい、なるほど、大日經は大師にとりて貴重の經典であつて、是非唐に赴きて、徹底するまでに學習したいと思はれたに相違はなからうが、入唐せられんとする當時には、二十年間支那に留學する御豫定であつた、大日經七卷の學習に、二十年の歳月が要するとは、我々とても思はない、唯識に關する文學を渉獵せんには、三年はかゝり、倶舍に關す
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