フ時代と同時代ではないから、密教の文學が出來る以前に、密教的思想なり、密教的信仰なりが出來た時代は、たゞ悠古の時代にあつたと云ふことが出來るだけで、今より幾千年前であつたか、何人も、これを定むることは不可能である、阿闥婆《アタル※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]》吠陀の成立は、梨倶《リグ》吠陀の成立に比すれば、其の年代は、後代にあるべきことは、言語發達の上から推定することは、出來るが、同時に阿闥婆《アタル※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]》吠陀の中に現はれた或る思想、習慣、信仰は、梨倶《リグ》吠陀の中に現はれたものに比すれば、一層上代にあつたと云ふ確證も出すことが出來る、要するに、密教的信仰の根本は、其の年代を定むることの不可能なることは、何人も、承認せねばならぬ。
然らば、いつの時代から、密教が佛教の中に入ることになつたかと云ふと、若し佛教が、其の名目に於ても、實質に於ても、果して、迦毘羅城の一王子の出現以前に於て皆無であり、又其の出現を待つて、始めて出來たものならば、密教が佛教の中に入つたは釋迦佛の出現以後即ち西暦紀元前第六世紀乃至第五世紀の時代より、後であると云はねばならぬが、それは、各自の見方如何によることで、吾輩は、佛教を以て、單に、或る時代、或る方處に於ける印度思想の存在の一形式と見做たものであるから、若し佛教と云ふ名稱だけの起源なら、密教と云ふ名稱とは、文字が異同あるから、名稱の異同を立つるも、不賛成ではないが、實質内容の詮議となると、共に均しく、印度思想と云ふ、大潮流の中にあるので其の潮流が、平風恬波洋々として流るときを、假に小乘佛教と名づくれば、風に煽られ、岩に激して、波浪澎湃としてゐる部分を、大乘佛教と名づけ、瀑布となり廻瀾となつた部分を、假に密教とすると云ふ風に、印度思想の變遷を觀察するが、吾輩の見方で、密教が、佛教に入つたとか、婆羅門教が佛教に入つたとか云ふやうな見方は、私の賛成出來ぬ見方である、若し夫れ、西洋の一派學者の云ふごとく、婆羅門教が佛教に入つて、佛教が墮落したのが密教であるなど云ふは、一顧の價値だになき論で、かゝる論者は、先づ婆羅門教とは如何なる教か、佛教とは、如何なる教かと云ふことの定義を下して見るがよいと思ふ、同時に、南方所傳の佛典には、果して、論者の信ずるごとく、比較的原始佛教の俤を傳へたものであつて、毫も密教的信仰
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