ェ、其の中に發見出來ぬか否やを、研究したら、かゝる議論は出來ぬ筈であると、私は信じます、今日日本に傳つて居る密教には、瑜伽の哲理と修行は、基礎になつて居る然るに、瑜伽の行と見るべきものは、昔から佛教の中に存在して、其の大乘たると、小乘たるとに論なくこれによりて、神變自在を得んとするのである、かの地想觀水想觀などの、觀行は、即ち、是れで、地想觀ならば、土塊が、小さい堆積を作り、地大即ち、土地と云ふ、元素の形状を、己の心に思ひ浮べ、又一心をこれに集中する爲め、其の名を念誦する、同時に、己の身體は、これと同一體であると觀じる、かくの如くして、久しきに亘ると、觀行圓熟して、目を閉づるも、目を開くも、地大の、形色が、心目に浮び來るが、かく見えるものを、相即ち(Nimitta《ニミツタ》)と云ふのである、かゝる状態に立ち來ると、天に翔り、地に入りても、水に沒しても、一向差支へなく、所謂自在を得たものとなるのである、水想觀でも、風想觀でも同一である、其の他、佛教に通じて、瑜伽の修行や理論が基礎となつて居る點が多い、密教の行者が、自己の對して居る本尊と、自己と同一體であると見るは是れ、瑜伽の理論に基づいたもので、瑜伽の哲學の目的は、能觀と所境相分と見分との區分を沒却するに外ないのである、しかし、密教の理論的方面には、必ずしも、瑜伽の哲學のあるばかりでなく、もと/\、密教は、前にも云つたごとく印度思想の一大潮流が、或る時代に於て密教となつて現はれたものであるから、種々の哲學が其の中にある、聲字實相論などは、毘陀の常住不滅を唱導する彌曼差《ミーマーンサ》哲學と、其の歸趣を一にするものと吾輩は信ずる、又、即事而眞の説と、吠檀多哲學の最後の安心である、余は梵天なりと云ふ論と、如何なる差違があるか又密教の中には數論的分子もある、この分子の多く入つた密教は、今日もなほ、印度に殘つて居る、自性と神我との關係を、男女の關係に見て、象徴的の解釋をすれば、ともかく、文字通り解釋すると、淫猥極まる宗教となりて居る、所謂|怛土羅《タントラ》派の左行派《※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ーマ、チヤーリン》である、これに反するものは右行派《ダクシナーチヤーリン》である、其の他|布字《ニヤーサ》の法にしても、種字《ビーヂヤ》にしても、曼拏羅《マンダラ》にしても、陀羅尼《ダラニー》にしても、今日日本に存在して
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