汨謔ナあります、義淨の入寂は、玄宗皇帝の先天二年即ち開元元年であります、西暦七百十三年でありますが、當時支那のことが、印度にも傳はつて、密教の勢力が日に盛なることが、金剛智三藏にも、善無畏三藏にも、其の事情が判明したと見えて、善無畏三藏は、開元四年、即ち西暦七百十六年、金剛智三藏は、開元七年、即ち西暦七百十九年、印度から、途を南北に分ちて、入唐した、開元天寶の時代は、唐の文明が、最も隆盛を極めた時代で、藝術が最高潮に達した時代である、當時宮廷の風尚、信仰の状態は、晩唐の詩人鄭嵎が津陽門詩に於て歌ふた通り、禁庭術士多幻化、上前較勝紛相持、羅公如意奪顏色、三藏袈裟成散絲、で盡して居る、羅公とは羅公遠のことで、三藏とは金剛智三藏のことか、不空金剛三藏のことか明白でないが、それは孰れでもよいとして玄宗皇帝の方は、羅公遠を崇び、楊貴妃の方が、金剛三藏の方を崇ばれた、天子が功徳院に幸し、七聖殿に謁せんとしたとき、背が痒きを覺えたから、公遠は早速竹枝を折りて、方術で、七寶の如意となして、天子に進めたが、金剛三藏が、袖の中から眞の如意を出した、七寶炳耀として、光あつて、公遠の献じたものは、竹枝となりてしまつた、是れは羅公如意奪顏色とある、又公遠が符を飛ばして、三藏の金襴の袈裟を奪ふたが、三藏は呪を誦してこれを取つた公遠は、更らに水龍符を袈裟の上に撰びたが、袈裟は散して、絲縷となりて盡きたとある、天子の神仙を好んだことは、明皇十七事と云ふ書にも出て居る、善無畏三藏が、天子の命を受けて雨を祈つたことも、此の書の中に出て居る、當時天子の禁廷に出入して、其の寵遇を受けた術士高僧は、尠くはなかつたが、就中、不空三藏は、灌頂國師となつて最も、天子の親信を受けたのである、宋の高僧傳を見ると、左の如き文がある。
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玄宗召術士羅公遠、與空※[#「てへん+角」、60−9]法、同在便殿、羅時時反手掻背、羅曰借尊師如意、時殿上有華石、空揮如意、撃碎於其前、羅再三取如意不得、帝[#「帝」に白丸傍点]欲起取、空曰三郎[#「三郎」に白丸傍点]勿起、此影耳、乃擧手示羅、如意復完然在手とある。
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佛祖歴代通載の第十七卷には、天寶年間丙戌の記事として前文と大同小異の文が載せてある。
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是歳不空三藏自西域還、詔入内結壇、爲帝灌頂、賜號智藏國師、時方士羅
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