v遠者、以術得幸、有旨令與不空驗優劣、他日會干便殿、思遠持如意、向之言論次、不空取如意投諸地、令思遠擧之、思遠饒力不能擧、帝擬自取、不空笑曰、三郎彼如意影耳、即擧手中如意示之、とある。
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如意が手中にあつたか、手中になくて、地上にあつた、又如意が輕かつたか、重かつたか、羅公遠と云ふが正しかつたか、羅思遠と云ふが正しかつたかが、吾輩の問ふ所でない、吾輩が、前文を見て、深く心を動かすものは、不空三藏が、大唐の天子、東方亞細亞の大皇帝に對し、三郎[#「三郎」に白丸傍点]と云つて陛下とは云はなかつた一事である、三郎[#「三郎」に白丸傍点]とは、玄宗皇帝の通名である、即ち睿宗皇帝の第三子であるから、親子兄弟親朋の間には、面とむき合つて、三郎[#「三郎」に白丸傍点]と云ふも、差支はなかつたらう、又、玄宗皇帝は、若き時分から濶達の氣質で居らして、盛に壯士と布衣の交をしたものであつたが、皇帝となられても、隨分浮名を流されたことゝ察せらるゝから、民間でも、所謂蔭口では、三郎[#「三郎」に白丸傍点]と云ふたことは、恰も、今日巴里の市民が、我が同盟國である筈の英國の先帝、「エドワード」第七世陛下の御壯年時代を追想して、快濶な「エツ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ード」などと呼ぶがごときものであるが、面と向き合つて、英國の先帝陛下に「エツワード」と呼びかくることの出來た人々は、世界の中、幾人あつたか、玄宗皇帝のことを、單に三郎[#「三郎」に白丸傍点]と蔭口に、民間で云つたことは、いくらも例がある、俗書ではあるが、鶴林玉露と云ふ書の中に、郎當曲と云ふ題下に、魏鶴山の詩を引用して、紅綿繃盛河北賊、紫金盞酌壽王妃、弄成晩歳郎當曲、正是三郎快活時とある、快活三郎とは、民間が、玄宗皇帝を蔭で呼んだときの名である、河北賊とは安禄山のことで、未だ反せぬとき、楊貴妃が紅綿の※[#「糸+曾」、第3水準1−90−21]※[#「女+綵のつくり」、62−7]で、安禄山を包んで、宮中に舁き込ましめたから、かく云ふのである、壽王妃とは、楊貴妃のことで、もと/\、壽王の妃であつたが、早く云へば、玄宗皇帝が、横取して、宮中に納れたから、かく云ふのである、安禄山の變で、蜀に蒙塵せられ、亂平いで、長安に歸らるとき、驛傳の駝馬につけた鈴が、郎當/\と音するから、天子が、妙に感ぜられて侍臣に對し駝馬
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