pシ域求法高僧傳に見えて居る、其の外長年の藥を求めに印度に赴いた、高僧がある、玄照は其の人である此の長年婆羅門とは、抑も、如何なる梵語の譯であるか判然しない、或は、具壽、又は長老の梵語に當る 〔A_yusmat〕《アーユシユマツト》[#sは下ドット付き](命壽あるもの)を配する學者があるが、是れは、明かにいけない、寧ろ、〔Di_rgha_yus〕《デイルガハーユス》(長命の)〔Cira−ji_vin〕《チラヂーヰン》(長生の)などの成語が適當である、又、盧迦溢多は 〔Loka_yata〕《ローカーヤタ》 の音譯としてあるが、是れは、賛成だが、しかし其の意味は、順世外道と云ふに至つて、人名とも見えない、察するに、當時の順世外道は今日の唯物論者と同じく、人間の生命などは、四大の和合から出來た現象と見るのであるから、或は此の派に屬する哲學者は、四大の配合如何によりて生命を延ばし、又不死の妙を致す方法を唱へたものと思はるゝ、今日の化學者を以て、これに比するは、聊か不倫ではあるが、昔時|錬金學者《アルケミスト》のやうなものであつたらう、かゝる哲學者が、印度に居ると云ふことを、誰が、高宗皇帝に奏聞したものか、判明しないが、高宗皇帝は、秦の始皇帝と同じく又漢の武帝と同じく、かゝる靈藥は、人間にあることゝ信じて、折角多年印度に留學して漸く歸唐し、これから翻譯にでも取りかゝらうと思うて居る、玄照を印度にやつた、然る所、北印度の界で、唐の使節が、盧迦溢多を引きつれて、支那に歸らうと云ふのと、遇ふたものだから、更らに廬迦溢多の命によりて、西印度の羅荼(〔La_ta〕[#tは下ドット付き])國に赴き、長年藥をとりに往つたとある、此の羅荼の國は、當時密教の中心である、此等のことから見ると、高宗皇帝は呪術禁厭等のことを信じて居つたらしい、武周の世になつてからは、武后自身は、隨分ひどいことをして高宗の寵を專にし、又唐の天下を奪ふまでには、種々の罪惡を積んで居る、しかし、根が女人であるから、時々往昔の事を思ひ出しては、己の罪業の恐ろしきことを思ひ到つたに相違ない、かゝる女人に對しては、罪垢滅盡の法を有する密教は最も適當な教である、一體女人で帝王になつた方々は、和漢共に高論玄談を主とする樣な宗教は、喜ばない、寧ろ三寶を敬信して、福田を植ゆるとか、又攘災祈福の祭を致して、己の後生の爲にするとか云ふ風な
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