フ大帝王、百王の王として、萬國の仰ぎ見た唐代の天子は、抑も、何を信じて居られたか、又天子の身邊を圍繞する大臣宰相の信仰した、宗教は何かと云ふ問題になると、それは、歴代の天子により、又卿相の意樂により、又宗教界から出た偉人の性格により、時の變易があつて、一概に論ずることが、困難であるが、先づ動きのないところは、當時道教が、唐の天子の歸依によりて、中々盛んなものであつたと云ふことである、元來、老子も、李姓なれば、唐の天子も、李姓である、それにつけて、天子は老子の子孫のあると附會したものだから、老子の崇拜が、盛になり、至る所、道觀が起り、道士が勢力を得た、かの老子化胡經などと云ふ書物が、最初は、晋代の王浮が作つたものであるが、唐代に至りて、一層舖張したのである、これは、老子が、西の方關を出でんとしたとき、尹子の乞に應じて、五千言を遺したと云ふ傳説に附會して、其の儘死なすのは、惜しいから、尹子と老子とが印度に入りて釋迦となり、舍利弗目※[#「特のへん+廴+聿」、第3水準1−87−71]連等を化度したり、波斯に入りて、末摩尼となつたり、して、摩尼教を建てたなど云ふ、ことを書いたもので、王浮の作つたときは、一章であつたが、唐代に至りて、種々の宗教が入つた爲め、老子尹子を、此等の宗教の祖師とする必要から、種々添補して、幾多の章になつたが、此の書物は、日本にも、唐代から傳はつたと見え、藤原佐世の日本見在書目の中にも、出て居る、私共の友人で、桑原博士が、先般「藝文」の中に此の書のことを詳細に論じて居るから、篤志のかたは、是非一讀を願ひたい、かゝる書物が、唐代で流行したのは、全く、道教が盛になつたからで、有名な玄奘三藏が印度から歸つたとき、太宗の勅命で、印度から唐の朝廷へ來る國書の翻譯やら、又唐から印度へやる國書の起草など一に玄奘三藏の手を煩はしたものであるが、東印度の童子王、即ち迦摩縷波國の「クマーラ」王の請により太宗の思召で、老子の道徳經五千言を梵文に譯して、西域の諸國に贈れとの事で、玄奘は、道士等と共に其の翻譯に從事した位である、不幸にして、道士等が、老子の所謂「道」を菩提と譯せんと主張し、玄奘が末伽(〔Ma_rga〕)と譯しやうとし、とかくに玄奘と議論が合はない、ともかくも翻譯して、將に封勒せんとしたが、又議論が出來て、結局西域の方へ送つたのか、送らなかつたか、西明寺の道宣が作
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