、と云ふときに、通る國で、今の Kafirstan《カフヒルスタン》 である、地圖で一見すると判明しますが、印度の西北境にある國である、羅好心は、これから、やつて來て、しかも、支那の天子の親近を辱うし、禁衞軍の大將となつたのである、しかも、朱※[#「さんずい+此」、第4水準2−78−36]の亂のときは、其の中軍を指揮して、頗る戰功があつたことが、宋高僧傳に、般若三藏の傳に附帶して、見えて居る、其の肩書も奉天定難功臣開府儀同三司※[#「てへん+僉」、第3水準1−84−94]校太子※[#「譫のつくり」、第3水準1−92−8]事上柱國新平郡王とあつて、朱※[#「さんずい+此」、第4水準2−78−36]の亂に、徳宗皇帝が奉天に蒙塵せられた、其の時に、禁衞軍に將として、奮戰して、回天の事業に貢献したものだから、奉天定難功臣と稱したので、中々振うて居る、遙々と山河萬里の絶域から來て唐の天子に仕へ天子が、危いときは、身命を賭して戰ひ、天子も又これを疑はないで、禁衞軍の大將にするなどは、一は、羅好心なるものゝ誠忠によることであるが、一は、唐の天子が、東方亞細亞の大帝王を以つて自から居り、百王の王を以て、自から居つたからで、自分は、天に代りて、道を行ひ四夷は皆己れの藩屏で、國平かなときは、化を慕うて來貢し、國が亂れたときは兵を率ゐて、己に忠を竭すべきものと信じて居つたからである、かく信ずることの是非善惡は暫らく擱きて、かく構へ込んだところは、大きいと云はねばならぬ、とにかく、「カフリスタン」の邊陲から來て、禁衞軍の大將となることなどは、唐の天下であるか、羅馬の盛時でなくば見られない現象である、現今、英國の國王の護衞兵の中に「シツク」の騎兵が居るなどは、やゝ似て居るが、とても及ばぬことゝ思ふ、般若三藏が、大乘理趣六波羅蜜多經を再び譯するに至つたは、全く、此の羅好心の天子に奏聞した結果で、其の奏聞に對する御枇などは中々鄭寧なもので、卿之表弟、早悟大乘、遠自西方來遊上國、宣六根之奧義、演雙樹之微言、念以精誠所宜欽重、是令翻譯俾用流行、卿夙慕忠勤、職司禁衞、省覽表疏、具見乃懷、所謝知とあるは、唐代の天子が如何に外人を待つに厚かつたかゞ判明する、弘法大師の入唐は、即ち此の天子の貞元二十年で、般若三藏が、羅好心の援助を得て、理趣經の翻譯を竣へた年から僅に十二年の後である。
かくの如く、東方亞細亞
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