、桓武帝の延暦二十三年で、唐朝の方では、徳宗皇帝の貞元二十年であります、これは何人も知つて居る事で、更めて云ふまでもないが、西暦で申すと、紀元八〇四年でありますから、即ち、九世紀の始めで、二十世紀の今日から、遡りて、數ふると、十一世紀以前の出來事で、當時の世界を見渡すと、亞細亞と歐羅巴との二大陸には、文明の國として見るべきものは、五ある、第一は、支那、第二は、印度、第三は、バクタツトを中心として、絶世の明君「ハルン、アル、ラシツト」の下に咲き出でた回教徒の文明、第四は、囘教徒の建設した、「クラナダ」の都を中心として、西方地中海沿岸の地に光被する西班牙の文明、第五は、「シヤールマンヌ」の武力の下に漸く頭を上げかけた西羅馬の文明、第六は、今の君主但丁堡、昔の「ビサチユーム」を中心として、對岸の小亞細亞一帶の地に光被する東羅馬の文明であるが、中にも、支那の文明は、今日地理學に云ふ支那一國の文明でなく、實は、葱嶺の東、扶桑の西に亘りた東方亞細亞の民族を代表する一大文明であつて、南は、今の南洋諸嶋に至り、北は漠北に連りた土地に生息する民族が、仰で、文明の儀表としたものである、當時の支那の都の長安は、支那人の長安あるばかりでなく、實は、東方亞細亞の民族の首都である、恰も、今日の巴里が、佛蘭西人の首都であると共に、歐州大陸の首都であると同一な趣がある、東は、日本、北は渤海、南は今の印度支那、爪哇、蘇門多羅、西は印度西藏、中央亞細亞、波斯などの民族が、風を望み、化を慕うて、朝宗した所で、萬國の衣冠は、長安に湊つた次第で、長安に起つた風尚は、全支那を支配したのみならず、東方亞細亞一帶の地を支配したのである、又幾多の宗教并に思想が、民族の麕集すると共に、長安に麕集したのである、大師の長安に到着せられて、最初居住せられた所は、西明寺の中であつたことは、大師の文章にも見えてあるが、此の西明寺のあつた坊は、惟ふに、延康坊と云つた所で、其の西南隅にあつた西明寺は、隋の時代に、權威朝野を傾けた楊素の宅の址で、顯慶二年高宗皇帝の時に、皇太子の病が癒えたと云ふので、報謝の爲めに寺を建つることになり、落成の時は、顯慶三年であつたことが、續高徳傳第四、玄奘の傳の下に見えて居る、此寺の建築は、印度の祇園精舍の規模によつたとかで、我朝でも、此の規模に擬して、聖武帝の神龜年間に、唐僧道慈律師が、奈良に建てたの
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