然せぬが、東大寺の明一の爲めに、留學久しかつた割合に學殖は淺薄であると叱責せられた所を見ると、在唐の年月は久しかつたものと見える、隨つて、當時、支那に於ける宗教の状態は、詳知して居つたに、相違ない、又近江の梵釋寺の永忠なども、稱徳帝の寶龜年間に入唐し、長安は、西明寺に滯在して、十數年の久しきに亘り、延暦の初に歸朝したのである、大師は必ずしも、此等の人々と面會せられて、唐の事情を聽かれたとは云はないが、苟も、萬里の波濤を凌ぎ、身命を賭して、入唐せられやうとする大師にして、唐の長安の事情は、豫め調査しないで、渡唐せらるゝとは、思はれない、調査せられば、當時唐の天子の信仰せられた宗教は、密教であり、又長安に於ける上流社會の信仰を鍾めた宗教、朝野一般の風尚となつて居つた宗教は、密教であつたことは、入唐以前豫め知悉せられて居たことゝ、私は確信する、然も、これを學習するには、二十年かゝると思はれたのである、自から偉人であつて、而も偉人たることを知らないのは眞の偉人である、故に事に當つて、刻苦する、自から天才であつて、而も、天才たることを知らないのが、眞の天才である、故に學に志して、勉勵する、大師が、日本國に於ける、御自身の使命を自覺せられたのは、入唐以前であつたらうが、眞に御自身が、これに堪ゆる天才なることを意識せられたは、入唐後惠果和尚に遭ふた時である、故に惠果の如き明師に遭ふまでは、遠くは法相の玄※[#「日+方」、第3水準1−85−13]や、近くは梵釋寺の永忠などと同じく、二十年の星霜を長安に送らなければ、御自身の目的を達せられないと云ふ考らしかつた、私は、これを以て、大師の御性格が如何に眞摯で、誠實であつたかを想見する次第であり、又今日でも、昔時でも、凡眼は、常に英雄を知らず、己を以て他を推し、洋行したことのあるものは、洋行せないものを一向輕蔑し、又長く洋行して居つたものは、二三年しか洋行したことのなきものを罵りて、少しも十年位は洋行せねばいかぬ、二年や三年では何もならぬなど云ふと同じく、大師入唐以前に、奈良や京都の學匠どもは、定めて、大師に向ひ、二年や三年では、いけない、往くからには、二十年も往くがよいなどと、云はれたことと想像する、大師も不幸にして、日本では、明師に遭はれず、知己にも會せず、成る程と思はれて、留學二十年と定められたことと思ふ。
大師の入唐は、我が朝では
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