は、即ち大安寺である、これは、前に已に述べたことゝ思ふ、西明寺が、延康坊にあつたとすると、それから、北へ光徳坊、延壽坊と往くと、布政坊と云ふ坊があつた、其處の西南隅に胡※[#「示+夭」、第3水準1−89−21]祠[#「胡※[#「示+夭」、第3水準1−89−21]祠」に白丸傍点]と云ふ廟がある、又布政坊に隣りて、西に醴泉坊と云ふがある、其處の西門の南には、※[#「示+夭」、第3水準1−89−21]祠[#「※[#「示+夭」、第3水準1−89−21]祠」に白丸傍点]と云ふがあつた、次で醴泉坊の北は、金城坊と云ふのであるが、其の金城坊の西には、義寧坊と云ふがある、其の中に、波斯胡寺[#「波斯胡寺」に白丸傍点]と云ふがあつて、大宗皇帝の貞觀十二年、西暦六百三十八年に、大宗が、大秦國胡僧阿羅本の爲に立てたと云ふことになつて居る、即ち大師の入唐以前、百六十有餘年の時から、茲に存在したのである、又義寧坊の北が普寧坊と云ふので、其の西北隅に※[#「示+夭」、第3水準1−89−21]祠[#「※[#「示+夭」、第3水準1−89−21]祠」に白丸傍点]と云ふがある、又大師が後に居られた青龍寺と云ふは、長安の都の東部で、新昌坊と云ふ處にあつた寺と思はるゝが、新昌坊の直ぐ北は、靖恭坊と云ふのであつて、茲にも、※[#「示+夭」、第3水準1−89−21]祠[#「※[#「示+夭」、第3水準1−89−21]祠」に白丸傍点]と云ふがあつた、抑も、胡※[#「示+夭」、第3水準1−89−21]祠と云ひ、波斯胡寺と云ひ、又※[#「示+夭」、第3水準1−89−21]祠と云ふは、如何なる宗教の寺かと云ふと、※[#「示+夭」、第3水準1−89−21]祠とは、※[#「示+夭」、第3水準1−89−21]教の祠廟と云ふのであつて、※[#「示+夭」、第3水準1−89−21]教は即ち、「マズデイズム」(Mazdeism)を云ふのである、波斯胡寺とは、少しく漠然として居るが、大秦國胡僧阿羅本の爲めに建立したと云ふより見れば、基督教の一派景教の寺である、景教は、西人の所謂、「ネストリアニズム」(Nestorianism)である、西暦第四世紀の後半に、支那で云ふ大秦即ち今の西里亞《シリア》に生れた「ネストリユース」の創めた基督教の一派で、其の教旨は、今日歐州に行はるゝ基督教に比すると、教祖基督の性質につきて、大に見解を異にして居る
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