の「アー※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]」と 〔Samgha_disesa〕[#mは上ドット付き] の「アーディ」である、これを無事におさめやうとすると無理が出來る、其の一例は支那の蕭齊の時代(西暦四百八十九年)に僧伽跋陀羅三藏が「パーリ」語から譯出せられたと云ふ善見律毘婆沙《サマンタパーサデイカ》第十二(寒八、六十八丁右)にある文である
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僧伽婆尸沙者|僧伽《サングハ》者僧也、婆者初[#「婆者初」に白丸傍点]也、尸沙者殘也、問曰云何僧爲初、答曰此比丘已得罪樂欲清淨往到僧所僧與波利婆沙、是名初、與波利婆沙竟、次與六夜行摩那※[#「土へん+垂」、第3水準1−15−51]、爲中、殘者阿浮呵那、是名僧伽婆尸沙也、法師曰但取義味、不須究其文字、此罪唯僧能治、非一二三人、故曰僧伽婆尸沙
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と大體の主意は、さきに引用した「パーリ」語の譯文の主意と一致して居るから、これをかれこれ云ふのではないが、第一に不思議に思ふは此の善見律毘婆沙は「パーリ」文から譯出せられたと云ふにかゝはらず、僧殘の語を「サング※[#小書き片仮名ハ、1−6−83]ーディセーサ」とせずして「サング※[#小書き片仮名ハ、1−6−83]ー※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]セーサ」として居ることである、第二には婆(Va)者初也と云ふて居ることである、こんなことは決してない、梵語にしても「パーリ」語にしても va 又は ava と云ふ音に始と云ふ意味はない、或る學者の云ふごとく、果してこゝに所謂法師とは南方佛典の大注釋家|佛音《ブツドハグホーサ》であつて、僧伽跋陀羅三藏の師事した學者であるとの事であらばなほさら不思議である、婆者初也など隨分いい加減のことを云つたものである、殊に妙なのは但取義味不須究其文字と云つたことである、太だ佛音が律藏論藏五阿含などに對する注疏に見えた注釋ぶりなどとは違つて、振はないこと夥しい、恰も教場で學生どもから問ひつめられたとき、先生が逃を張るときのやうな口吻がある、しかし察する所は、これは問ふものと答ふるものとの間に思ひちがひがあつたから、かゝる變な文が出來たものと見える、問ふ方では梵語の方の僧伽婆尸沙《サングハー※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]シエーシヤ》(〔Samgha_vac,esa〕[#mは上ドット付き])と云ふ言葉を頭にもつて問ふたるに、答ふる方ではパーリ語の(〔Samgha_disesa〕[#mは上ドット付き])を頭にもつて答へたやうだ、婆《※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]》又は阿婆に決して初と云ふ意味はないが「アーディ」には、前きに、しば/\云つたやうに始と云ふ意味がある、此の邊の思ひちがひから、あのやうな變な文が出來たことゝ思はれる、この事に關しては後に更に論ずることもあるから今は何とも云はぬ、要するに僧殘罪と云ふ支那の譯語に對しては南北の佛教に二樣の原語があつて一樣でないと云ふことだけ讀者の記憶せられんことを望むまでゝある。
しかし戒律を制定せられたかたは、佛自身であつた筈だが、衆學法などのやうな行儀作法に關する輕い規則は時により、處によりて後人が多少の改易もあつたことゝ思ふ、現に支那に存在する諸部の律文を見ても、此の間には、多少の出入損益はある、しかし何はともあれ、波羅夷罪に次いで重大な犯罪である、僧殘罪は決して恣に後人の取捨損益を許さない筈のもので、現に諸部の律文は其數が十三と云ふに於て一致して居る、從つて其の名稱も、佛在世の時代から存在して居つたことゝ見るべきである、然るに其の名稱の由來を見るに、一方では此種の罪を犯したものは、僧團の「あまりもの」とせらるゝからだと云ひ、他方ではこれを處分するには、始中終、僧團の集會の上で定むることが必要だからだと云ふ、佛が在世の當時此の名稱があつたことゝすると、佛が如何なる趣意で此の名稱を制定せられたか、あるときは、一方の趣意、あるときは又、一方の趣意で、かゝる名稱を用ひられたとは信ぜられない、必ずや確固たる理由又は趣意を以てかゝる名稱を用ゐられたに相違ない、然るに、これに種々の趣意を附して、變な説明を附し、はては行き詰つて、たゞ義味をとれ、其の文字を究むる必要はないなどに云つてしまつては、甚だ、佛に對してすまぬ心地がする、何とか二者の中、いづれかにきめたい、自分一個としては犯罪の處置につきて、始中終、僧團全體の出席を要するものは必ずしも僧殘罪には限らない、これより重き波羅夷罪の處分につきても然りである、だから「パーリ」語の「サング※[#小書き片仮名ハ、1−6−83]ーディセーサ」に對する説明は、はなはだ、感服せぬ、何はさておき、この語を分析して Samgha《サングハ》[#mは上ドット付き] + 〔a_di〕《アーデイ》 + sesa《セーサ》 とするのは、そもそも曲解であると思ふ。これは Samgha《サングハ》[#mは上ドット付き] + adisesa《アデイセーシヤ》 と分析すべきものである、梵語に改めて見れば Samgha《サングハ》[#mは上ドット付き] + 〔atic,esa〕《アテイシエーシヤ》[#sは下ドット付き] である、これならば僧始終でなくて、立派に僧殘と云ふ意味になる、ちやうど、日本語で、山《ヤマ》と寺との二語で、山中の寺と云ふ言葉を作つたときは「やまでら」と云ふて、「やまてら」とは云はない、即ち「でら」の「て」は「で」となる、「やまてら」と云つたら古では叡山と園城寺とならべ云ふときの略稱である、又、矢《ヤ》と木《キ》との二語で「矢につくる木」と云ふとすると、「柳《ヤナギ》」と云つて「やなき」とは云はない、即ち木の「き」は「ぎ」とかはる、これと同じく古代印度の俗語では、本來の清音は即ち、tとかkとか、pとか云ふやうな音は、もし二個の母音即ちaとかiとかuとか云ふやうな音に挾まつたときは、濁音のbとかgとかdとかになるが常である、一例を擧ぐると「※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ラルチ」の俗語語典《プラークリタプラカーシヤ》に 〔Ritva_disu to dah〕[#Rは下ドット付き。sは下ドット付き。hは下ドット付き] と云ふ規則がある、リツ(ritu[#rは下ドット付き])等の梵語ではtはdとなる意で、〔atic,esa〕[#sは下ドット付き] の梵語が adisesa となることは、これで明白である、だから梵語ならば 〔Samgha_tic,esa〕《サングハーテイシエーシヤ》[#mは上ドット付き。2つめのsは下ドット付き] と云つたものが俗語で 〔samgha_disesa〕《サングハーデイセーサ》[#mは上ドット付き] と發音する慣例になつて居つたに相違ない、前にも申した通り「パーリ」語と云ふものは多數學者の云ふやうに決して佛在世の當時の言葉でもなく、又、印度の一地方の方言でもなく、云はゞ佛教の教團の中に出來た非常に發達した文學語であるから、俗語から「パーリ」文にかき直すときに、てつきりこれは samgha[#mは上ドット付き] 〔a_di〕 sesa だと誤解してdの音を其のまゝに放置したのがそも/\混雜を生じたもとで、少くも二千年間、敬虔なる佛教徒、正直な佛學者の疑惑を誘致して種々の牽強附會の説を惹起したもとであると自分は信ずる、最初から 〔samgha_tic,esa〕[#mは上ドット付き。2つめのsは下ドット付き] と梵語で傳はつて居たら、こんなことにならなかつたことゝ思ふ、しかし佛教の最初、起つた時代は、文字でかいて傳へるよりも、口から口へ記憶を傳へると云ふが原則であつて殊に戒律の規則などは、たとひ文字で書いてあつたにしても、日常の座臥進退に密接の關係があつたものであるから、必ずこれを記憶して置かねばならぬ、此の頃の法律のやうに文字でかいて、もつて居つて、疑惑あるごとに開いて見ると云ふやうなことではとても間に合はぬ、南方の佛教徒は昔も今も、八日毎に開く布薩の會には、波羅提木叉の戒文を誦するから、すべて覺えて居らねばならぬ、たゞに佛教徒のみならず、古代印度の法典も、またさうであつて、これを專門にして居る人々は、暗誦して居らねばならぬ、また古代印度のみならず、古代羅馬にても、さうであつて、羅馬の市民は少くも十二銅表に刻んである法文は記憶して居らねばならぬ、さもなくば「フオラム」で訴訟があつた場合に、立會つて何の事か自分ではわからぬ恐がある、だから羅馬青年の學科の中には十二銅標の法文暗誦は第一になつて居つたことは「シセロ」の書を見れば明白である。
佛教戒律の文も記憶で傳つた結果、種々其の語の由來について、判明せぬことが少くない、これらのことを明にして、はつきり、佛の本意を闡明したいと云ふのは、前猊下の御思召であつて、まことに結構な御趣意である、これには梵語で見て判然せぬときは、「パーリ」語でしらべて見、「パーリ」語でわからぬときは西藏文で見、なほ判らぬときは、中央亞細亞で、流沙の中から、西洋人、支那人、日本人が發掘した斷簡零楮について見ると云ふ必要が出來る次第である。
餘談はさしおき、「パーリ」語の 〔Samgha_disesa〕[#mは上ドット付き] は梵語の 〔Samgha_tic,esa〕[#mは上ドット付き。2つめのsは下ドット付き] に相當することだけは、明瞭になつたとして、然らば現在存在する梵本の中に於て、僧殘罪の原語は 〔Samgha_tic,esa〕[#mは上ドット付き。2つめのsは下ドット付き] であるかと云ふとさうでなく 〔Samgha_vac,esa〕[#mは上ドット付き。2つめのsは下ドット付き] である、〔atic,esa〕[#sは下ドット付き] にしても 〔avac,esa〕[#sは下ドット付き] にしても「あまり」「のこり」即ち殘と云ふ義であるから、意味は同一であるが音が違ふ、佛在世の當時、いづれの語を使用せられたかと云ふと、それは淺學の自分には、まだ判明しない、これは後日の研究に讓りたい。

(八)[#「(八)」は縦中横]僧殘罪の名稱の由來縁起はこれだけとして、この波羅夷罪につぐ重罪の中に、佛は、何故に沙門の結婚を媒介することを入れられたか、一寸局外から考へると結婚の媒介は男女の淫樂を媒介するやうにも見えるから、いけないと意料さるゝが、なるほど、年頃の男女の私通を媒介するは、第一沙門たるの品位をも傷けるし、男女の淫樂の便益を計るのであるから、道徳上、よろしくないことは申すまでもないが、正式の結婚は必ずしも男女の淫樂のためでなく、今日ではいざ知らず、古代では印度でも、希臘羅馬でも一種の宗教的行爲であり、同時に又、法律的行爲である、宗教上から見れば、結婚と云ふ行爲によりて、甲家の女子が乙の家の男子に嫁すると云ふよりも、寧ろ、甲の家の守護神の下に居る一人が乙の家の守護神の下に移る行爲であり、また甲の家の祖先の亡靈が支那流の言葉で云へば永く、血食せんため、印度流の言葉で云へば倒懸地獄の苦みを免れんために祭祀をなし得べき資格あるもの即ち子孫殊に男子を生むに必要な行爲である、家の守護神とは祖先の亡靈又は祭壇に絶えず燃ゆる火又は火神である、印度ならば家の中にある三種の「アグニ」の神、羅馬ならば「※[#濁点付き片仮名ヱ、1−7−84]スター」、希臘ならば「ヘスチア」である、法律上から見れば、これに依り、舅姑に對する義務を負ひ、また、夫により扶養の權利を得、又結婚後自己名義の財産を所有する權利を得、又、所生の子に財産の相續分配等の權利を附與する一法律行爲である、隨而、正當の結婚行爲其物は、近代思想から云つても男女淫樂のための行爲でない、まして、家族主義の色彩が非常に濃厚であつた古代では決して、かく解すべきものでなく、甚だ純潔な、宗教行爲、法律行爲である、隨而これを媒酌することは、たとひ沙門の身であつても差支へはないと思ふが、佛は何故にこれを禁ぜられたかと云ふと、全く結婚其の物は不淨ではないが、結婚後、男女の遭遇する境遇が幸福であればよいが不幸にでもな
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