うきものなり。
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この詩は、さきにかゝげた詩とは、體が異つて、四十四綴音から出來て居り、四分して十一綴音づゝとなり其の十一は、中で二分して五綴音と六綴音との單位に別れて居る、即ち帝釋杵《インドラヴヂユラ》と云ふ詩體である。
女子の結婚の場合は、日本の今日でも印度の古代でも、兩親の心配は、非常なものである、殊に古代の印度では相當な家の女子が一旦[#「一旦」は底本では「一且」]嫁に往つたのち、夫たる人が死んだときは、妻たる人も殉死するがよいと云ふことになつて居るから、親族どもの方でも、自分等の一族から「サティ」(貞女)を出したいと云ふ希望は常にあり、夫に死別れた女は衷心いやであつても、兩方の親族からこれを強制的に勸告することもある、しかし女のことであるから、勸告せられた時は決心をして居ても、いよ/\夫の死體が荼※[#「田+比」、第3水準1−86−44]に附せられんとして柴堆の上に載せられ、吠陀の諷吟が始まり、酥油を灌いだ柴堆に火がついて黒煙の中から紅蓮の舌を吐きて、焔が燃え上り、「サーマ」の曲が愁を含んで、寂しい音樂につれて、遠く翠微に響くとき、喪服をつけた婦人が、青春の殘る色香を惜みながら、跣足でしづ/\親族どもに伴はれて火に入らんとする刹那は、如何に鐵心石腸のものでも、正視すらするに堪へぬ光景であると想像せらんるが、習俗の力と云ふものは、えらいもので火の中に身を投ずる女子を見て、これを稱揚し、最後の一段となつて、ためらうときは、親族どもは一族の恥辱であるから、暴力を以て火の中につき落すことすらあるとの話である、よもやと思ふが、古往今來大抵の國の昔には、類似の習俗があつたことから推すと、あり得べきことゝ思ふ、今は英國の支配の下にある印度の部分では、かゝる陋習を嚴禁して居るさうであるが、なほ郷黨の譽を買はんため、僻陬の地、官憲の力の及ばぬ地方では時々かゝることが行はるゝとの事である、印度は大國であると同時に古國である、古國とは喬木あるを云ふのでない、古代の文献の徴すべきが殘て居る意義である、印度で一番舊い文献と云へば吠陀經で、中にも梨倶《リグ》吠陀と云ふのは一番舊いとのことである、「サティ」即ち夫に殉死する女のことは印度の學者に云はせると梨倶《リグ》吠陀中の讚誦第十卷、第十八章の七に根據を有して居ると云ひ英國の學者「ウイルソン」は其の曲解に基くことを辨じて居るが、吾人から見れば、いづれでも差支へはない、書物が出來て、風俗習慣は出來るものでなく、風俗習慣が出來てから、これに關する書物が出來るのである、早い話が日本の今日でも、古事記や、日本書紀に書いてない神樣が多い、中には非常に民衆の崇敬の中心となつて居らるゝ神々はある、稻荷さんだことの、金毘羅さんだことのと云ふは其の一例である、いづれも崇敬せらるべき相當の根據があつてのことであらうが、古事記にもなければ日本書紀にもない、書物にあつてもなくても此等の神々は昔から日本の國土のどこかに祀られて居つたことは事實である、「サティ」の習俗も古くから印度に存在して居つたことは否定出來ぬ、だから女子持つ兩親は身分が高ければ高いほど、女子の爲めに將來の婿がねを定むることは心配であつたに相違ない、身分は低ければ、低いだけに、また女子の將來に於ける生活に關し、兩親の懸念は並大抵ではない、隨つて結婚の媒酌をする人の責任も今日の日本に於けるよりは、重大であつて、自己の品位責任を顧慮する人々には、容易に出來ないことである、だから佛は弟子に對して婚姻の媒介を禁ぜられて犯すものは僧殘罪に問はるることになつて居る、僧殘罪とは波羅夷罪についで重大なる犯罪であることは誰も承知のことであるが、僧殘と云ふ語の意義は如何と云はれると恐らく何人も明白に答へ得る人はあるまいと思ふ。

(六)[#「(六)」は縦中横]梵語學者は Samgha《サングハ》[#mは上ドット付き](僧團)〔avac,esa〕《ア※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]シエーシヤ》[#sは下ドット付き](殘餘)の二語が結合して連聲の規則で「ア」の音が二つつゞくから、長くなつて 〔Samgha_vac,esa〕《サングハー※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]シエーシヤ》[#mは上ドット付き。2つめのsは下ドット付き] 即ち僧團の殘餘又は僧殘と云ふことになるからと云つて毘尼母經第七(寒帙九、三十四丁左)
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(一)[#「(一)」は縦中横]云何、名僧殘、僧殘者所犯僧中、應懺悔、不應一人邊乃至二三人邊得懺悔、衆中懺悔名爲僧殘、
(二)[#「(二)」は縦中横]一切比丘所懺悔事皆應僧中、僧爲作是名僧殘
(三)[#「(三)」は縦中横]又言僧殘者、殘有少在不滅名爲僧殘
(四)[#「(四)」は縦中横]又言僧殘者殘有少在不滅名爲僧殘、又復殘者如人爲他所斫、殘有咽喉、名云爲殘、如二人共入陣鬪、一爲他所害命絶、二爲他所害少在不斷、不斷者若得好醫良藥、可得除差、若無者不可差也、犯僧殘者亦復如是、有少可懺悔之理、若得清淨大衆、爲如法説懺悔除罪之法、此罪可除、若無清淨大衆不可除滅、是名僧殘除滅罪法(〔samgha_vac,esa_pattivyuttha_na〕[#mは上ドット付き。2つめのsは下ドット付き])教令別住(〔pariva_sa〕)六日行摩那※[#「土へん+垂」、第3水準1−15−51](〔ma_natha〕)阿浮呵那(〔a_varhana〕[#nは下ドット付き])行阿浮呵那得清淨意於所犯處得解脱、得解脱起已更不復犯、是名僧殘、
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とでも援引して説明を試むることであらふが、同じ言葉を説明するに四説あることはこれで明白である、第一説と第二説の二説とは要するに僧殘罪を犯したものは、自己の隷屬する僧團全體の立會つた上で罪の懺悔即ち赦免を請ふべきであつて、一人や、二人三人ぐらゐの少數の前で懺悔して、それでよいと云ふのでないから僧殘と云ふのであると云ふ趣意だが、これによると「僧」即ち僧團全體と云ふ語の存在は明白であるが「殘」の語の存在につきては、さらに、説明がなく強ゐて説明すれば犯者は殘りものとして加へず犯者以外の僧團全員の出席を要するからとも解せられるし、犯者を除いて、殘餘の團員の出席を要するからとも解せらる、又四分律などでは、又此種の犯罪者の處分には、僧團全體に種々の用事が殘るからと云ふやうな解があるがこれも又感服出來ぬ、歸趣する所は同一だが、こゝでは歸趣を問ふて居るのでない嚴正に語意の由來を研究して居るのである、
第三説と第四説とに依ると、僧殘罪の性質は波羅夷罪の性質と比較して輕いから、波羅夷罪の犯者は罪がきまると僧團から放逐せられて御拂ひ箱となるが僧殘罪の犯者は一時は僧團からのけられて別居するが(〔pariva_sa〕)、罪を僧團の中にて懺悔し、恭敬謹愼して(〔ma_natha〕)改悛の實が見えたら再び僧團の中に復歸(〔a_varhana〕[#nは下ドット付き])することが出來るから、云はゞ波羅夷罪の犯者は首は斬られて、胴體と首とは離れてしまつて、耆婆、扁鵲が來ても、命を取とめることが出來ぬ人のやうに、全然僧團の中から放逐せられて、復歸の見込みはないが、僧殘罪の犯人は首を斬られて[#「斬られて」は底本では「斯られて」]出血はしてもまだ胴體から全く離れた譯でなく、よい醫者が來て治療すれば命をとりとむることの出來る人のやうに、場合により僧團に復歸することが出來るから、僧團外のものともつかず、さればと云ふて僧團の一正員ともつかず、日本の軍律で云へば重營倉に入れられた軍人のやうで文官懲戒令で云へば待命謹愼中のものであり、一家で云へば、勘當とまでは行かぬが、三杯目には、そつと出す居候格の待遇で居る家族である、僧團の殘りもの、あまりものとしての格で居るから、僧殘と云ふのであると云ふ意味だから、大に明白だ、しかし、これで何事も隈なく明瞭になつたと思つたら大間違ひである。

(七)[#「(七)」は縦中横]なるほど梵語の方では僧殘罪のことは僧伽婆尸沙《サングハー※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]シエーシヤ》と云ふが、困つたことは梵語と同語系の語であつて南方錫蘭や、緬甸や、暹羅や、柬蒲塞などの佛經經典の語である「パーリ」語では、これに相當する犯罪を普通に 〔Samgha_disesa〕《サングハーデイセーサ》[#mは上ドット付き] と云ふのである、そしてこれを説明する南方の佛教學者は 〔Samgha[#mは上ドット付き] a_di sesa〕 と分析して僧伽(僧團)の始《アーデイ》と後《セーサ》となし、種々の牽強附會の説をなして居る、其の一二を擧ぐれば
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(一)[#「(一)」は縦中横]此種の犯罪により別住(波利婆沙 〔pariva_sa〕)の罰を科して反覆してこれを科し謹愼を命じたる上、舊に復歸せしむるは一人これをなすことを得ず、多數の人もこれをなすを得ず、たゞ僧團のみこれをなすことを得、この故に「サング※[#小書き片仮名ハ、1−6−83]ーディセーサ」と稱せらる。
(二)[#「(二)」は縦中横]僧伽《サングハ》(僧團)は最初に於ても、自餘の場合に於ても要求せらるべきが故に「サング※[#小書き片仮名ハ、1−6−83]ーディセーサ」とは云ふなれ、との文は何の意か、もしこの種の罪を犯してのち、清めんと希望するときは下に云ふが如きは、罪を清むるものなればなり、即ちかれに先づ第一に別住を科せんため、これについで、中間には恭謙、謹愼を命ぜんため、また時宜によりて反覆してこれを科せんため、終に於て舊に復歸せしめんために、僧伽《サングハ》(僧團)は要求せらるべきものなり、かゝる場合には決して僧團なくして何等の集會の式典を擧行することを得ざるが故に僧伽は始中終に亘りて必ず要求せらる、この故に「サング※[#小書き片仮名ハ、1−6−83]ーディセーサ」とは云ふなれ、
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右は「チルダース」の「パーリ」語辭典より孫引きしたものであるが、要するに、此の種類の罪を處置するには最初《アーデイ》から終《セーサ》まで僧伽の集會が必要であるから「サング※[#小書き片仮名ハ、1−6−83]ーディセーサ」と云ふのである、前に引用した毘尼母經第七に擧げた四種の説明中、第一説と第二説とに相當するやうである、して見ると支那で同じく、僧殘罪と云ふても其の原語の名稱の由來は區々多岐に亘りて、一定しないのみならず、名稱すら一方では「サング※[#小書き片仮名ハ、1−6−83]ー※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]シェーシャ」と云ふかと思へば他方では「サング※[#小書き片仮名ハ、1−6−83]ーディセーサ」と云ふ、「パーリ」語も梵語も同じく印度のアーリヤの言語であるが「パーリ」語は當時の俗語を基礎として梵語の典型にかき改めた一種の雅言であるから、「パーリ」語は佛出世の當時に於て印度のいづれかの地方の俗語であつたなど云ふ説はとるに足らぬ、まして摩羯陀國の語であるとか、阿輸迦王の弟で錫蘭へ佛教をはじめて持つていつたと云はるゝ摩哂陀の生れ故郷の「※[#濁点付き片仮名ヱ、1−7−84]ディシャ」(〔Vedic,a〕[#dは下ドット付き])地方即ち今の「ブ※[#小書き片仮名ヒ、1−6−84]ルシャ」(Bhilsa)地方の方言であつたと云ふ説などは「パーリ」語に限らずいづれの國の言葉でも文學の語と云ふものは、どうして出來るものかと云ふことを知つて居れば、かゝる議論は出來ぬ筈である、これは餘談に過ぎないが「パーリ」語は梵語に比して俗語に近いから聲音の種類も少ない、梵語では「シャ」行「スァ」行「サ」行と三種の遍口聲(シビラント)も「パーリ」語ではたゞ一つの「サ」になつて居る、だから「シェーシャ」と梵語で發音するのを「パーリ」語では單に「セーサ」と發音するのは不思議はないとしたところで、此の際丸くおさまらないのは 〔Samgha_vac,esa〕[#mは上ドット付き。2つめのsは下ドット付き]
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