がするから、一族中の女子が結婚をする際、其の親戚としては、餘事はともかく門地だけは將來の交際上、大に注意するは、當然のことゝ思はれる、
以上は婚姻の當事者と其の兩親親族とのことを述べたのであるが、赤の他人となると、中には、例外もあるであらうが、おしなべてまた、みづくさい話で、自分の知り合ひの家の年頃の女子は、どういふ婿を貰ふがどこへ嫁入しやうが、かれこれ云ふべき筋合でもなく、いづれにしても、めでたいことには違ひないから、相談を受けたり、問ひ合はされたときはさして自己に利害關係がないときは、これもよろし、あれもよろしで、なるべくのちのさゝはりのないやうにしておくが一番巧みな方法であるが、いよ/\となつて、日本ならば結納もとりかはし、結婚式もあげ、披露の饗宴にでも、自分が招かれて列席するとなると、茲にはじめて利害關係が生ずる、それは御料理のまづいか、うまいかの問題である、だから古代印度の詩人は「他人は食膳の旨からんことを希ふ」と謳ふた次第である、詩は極めて短く、日本の歌の卅一文字に一つ多い三十二綴音から成り立ち普通首廬迦と云ふ詩體で人生の大禮の一たる婚姻のときに立合ふ人々の心をわづかの文字で叙し去つたものであるから、やまと歌のやうに天地《あめつち》を動かし鬼神《おにがみ》を泣かすと云ふやうなはたらきはないが川柳《せんりゆう》のやうに寸鐵骨をさすやうな妙は、たしかにある、古い詩ではあるが人情には變異はない、其の機微を穿つたもので、大正の日本の今日でも適用の出來る詩であると自分は思ふ。

(三)[#「(三)」は縦中横]鬼か人非人かならばいざしらず人なみの人で年頃の女子を持つた兩親の心ほど、餘處目から見て氣の毒なことはない、家が富んで居れば居るだけ、不如意ならば不如意だけに心配は多いものである、相當の媒があつて縁談がはじまると女子の意見は第一に問はねばならぬ、自分等同志で相談もせねばならぬ、親族にも相談せねばならぬ、先方の婿の人物も素性も財産も取調べねばならぬから赤の他人であつても平素自分の家へ出入する人々にも問合はさねばならぬ、日本の今日ならば興信所へでも頼むことゝする、問はれた人々は他に理由あれば格別だが元來、めでたい話である以上、縁談が調うて、饗宴に招かれて、うまい酒や、おいしい料理でも出れば、それでよく、興信所ならば手數料も過分に貰へるから、なるべく成立するやうに話をする、先方の話がついたとこで、兩親同志の間に意見の衝突することがある、一方は人物に重きを置き、一方は人物のことは意に介せないではないが、とかく財産に重きを置く、幸にして人物はしつかりして財産も相當あつて、兩親の間に意見が一致しても、娘さんの方では、きれいな容貌の方に重きをおいて居るから、所謂好男子、金と力はとかくないものであるから、茲に一葛藤が生ずる、これも治まつたところで今日の日本のやうに個人主義の色彩が大方の家庭には非常に濃厚になつて來たら、親族の方は苦情申し立てゝ結婚に反對をしても支障はないが古代印度乃至今日の日本の貴族又は上流階級に見るやうな家族主義が勢力を占めて居るやうな場合には、親族どもの意見も大に顧慮せねばならぬ、そこで親族の意見、父親の意見、母親の意見、娘の意見の四種の意見が、上流社會の家庭には結婚の場合に對立することになる、母親の意見が勝てば娘さんはいやでも、應でも、金持の家にゆく、時あつて嫁入りしたさきは、高利貸でも、際物師で家庭の教養もなく、品性の劣等なことも顧慮しないと云ふことになるから、嫁した本人は、自暴自棄で金錢を湯水のやうにつかひ、自分の勝手なことをする、父親の意見が勝つと、娘さんは大學出の秀才で、法學士か、工學士か、醫學士か、商學士か、さもなくば參謀の方に※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]はつた軍人か、なるべく鐵砲玉の中る虞の鮮くて、早く出世する軍人かであつて、氣品もあり教養もあり、働きもあるところへゆくが、ともすると、持參金か又は類似の贈與物がいることがある、親族の意見が勝つと今度は時あつて財産家の娘さんは無論持參金つきで、祖先の遺産を[#「遺産を」は底本では「遺薩を」]蕩盡した名家の公達へ嫁に往くことになり、農夫、商人の女は一躍して、夫の餘光で貴族の班に列することになるはめでたいことではあるが、さて往つて見ると如何に兩親の膝下で豫備教育をして居つても所謂畠水練で、さてとなると中々間に合はぬ、先方の親戚の人々と交はつて見ると趣味、態度、言語、技能についてはどことなく引けをとる、これに追隨して行くには、一苦勞である、日本のことはしらぬが米國の富豪が歐洲の貴族に自分の女子を嫁入りさそうとして苦心して居るさまは氣の毒のやうである、女子のしつけは佛國が一番發達して居るからと云つて、家庭教師に佛國人を傭入れ、佛蘭西語をならはせ、音樂を教へ、繪畫、舞踏まで仕込むは勿論、中には巴里の市中又は附近に別莊まで建てゝ兩親とも移つて來て、女子の教養に力を盡して居り、金にあかせて、衣裳をこしらへて、美しく上品に見えるやうにして居るが、氏素性は爭はれぬ、米國の女子は矢張り、米國の女子で金の力でときには歐洲の貴族と結婚はしても結局は甘く行かぬことは多い、姑と話して居る中に「アシユランス」と「アンシユランス」と間違ふて直されたり「エパタン」と云ふやうな市井の語をつかつて叱られたり、やれ衣裳のきこなしがなつて居らぬ、やれ靴が大きすぐるとか云ふて可愛さうに、することなすこと、小言を受けて結局は夫と頼む婿にも飽かれて捨てらるゝ小説が隨分ある、又紐育の十二富豪の隨一たる富豪の家の令孃が帝政時代に出た佛國の某公爵家に嫁入りして、種々の葛藤不和を家庭に起し、結局公爵と親族の一人との間に決鬪すらしたといふやうな實例は、現に十數年前あつた、自分は彼の地に居たとき、新聞で長い間に亙りて、其のいきさつを記述したから、自分は讀んで今もなほ記憶して居る、いづれの時代いづれの國でも、人情には變はりはない、だから親族どもの意見のみに任して門地ある家に女子を嫁入らすと云ふことも、先づ一考を要する次第である、さればとて年齒もゆかず、世事にうとい女子の意見のみに任して、女子の好む人に嫁入らすと云ふことは甚だ危險千萬で、殊に女子の兩親に財産でもあると、これをあてに女子を誘ふものが少くない、かう愛情のない結婚は女子の將來にとりても甚だ危險である、此頃世間の新聞雜誌に喧傳せられて居る東京某名家の椿事なども世に傳ふるところだけでは眞相未だ判然せず、且つ其の中に散見する人々の中には自分の知己友人もあるからこゝに悉しくは述べることは出來ぬが察するところ、自殺せられた令孃の嫁に行つたさきは、相當の資産があつたなら已に出來たことゆゑ、令孃のおつかさんも或はこれを承諾[#「承諾」は底本では「承諸」]したかも知れない、又資産がなくて、裸一貫であつても、立派な人格力量があつて令孃の父たる方が存命であつたなら、無論進んでかの結婚を承認し場合によりては莫大な持參金を持たせて其の立身出世をたすけたことゝ思ふ、現に赤の他人でも父たる人によりて今までに引き立てられ、教育せられて立派な人になつた方々は鮮くないやうである、まして令孃のゆかれた先方は、以前から血を引いて居るとの話であるから、なほさらのことゝ思ふ、また資産はなく、力量はなくても高い門地でもあつて、當人はともかく、祖先の中に、國家に對して勳功があつたと何人も認めるほどの名家であつたならば、たとひ父たる方がなく、母たる方が財産の點から多少の異議を申し立てゝも、已に双方の結婚は事實上出來たことではあるし、他から勸めて、これを承認さしたかも知れず又其の亡父の恩を受けた人々はかく取計ふは至當であると自分は思ふ、然るにこれらの條件の一だに具備せず、又具備して居つたかもしれないが、不幸にして兩親親族の認識さるゝ所とならなかつた男子を選んで己の夫とした女子は、たしかに、不仕合せであると自分は思ふ、

(四)[#「(四)」は縦中横]年頃の女子が嫁に行く以前に、一家の中に、これだけの心配があるが、さて嫁入らして見ると、女子の兩親は申すに及ばず、婿となつた方の兩親にも非常な心配がある、支那の諺に痴でなく聾でなくば、阿翁阿家とはなれないと云ふて居る、即ち莫迦でなく、つんぼでなくば、舅や姑になれないと云ふことである、是れはなみなみの人が云つた言でない、唐代の代宗皇帝の云はれたことで、恐多くも御天子樣の仰である、讀者も知つて居らるゝことゝ思ふが、代宗皇帝は、徳宗皇帝の先代で、徳宗皇帝のときに日本から弘法大師や傳教大師が入唐せられたのである。皇帝には、十八人姫君があつて其の中第一第二の姫君は、早くなくなられ、第三の姫君は、裴家に降嫁せられた、裴家は、李唐の先祖が兵を晋陽に起して以來の佐命の臣裴寂の後である、第四の姫君は、昇平公主ときこえさせて、郭家の瞹と云ふ息に降嫁せられたが、この瞹と云ふ人の父は有名な汾陽王郭子儀で、素と身分は卑くかつたが、玄宗皇帝の御宇、天寶の末つかた、安禄山の大亂に、哥舒翰や、李光弼などと共に賊を討し、一旦傾覆せんとした李唐の天下を囘復した功臣で、王に封ぜられた人であるから、無論、息の嫁に天子樣の姫君を頂戴したとて、家柄には不足はないが、どういふものか息と昇平公主とは、夫婦仲はよくない、一方では皇女であつただけに、きてやつたと云ふ風なこともあつたであらふし、一方では、父の功勳を鼻にかけて居たこともあつたらふし、しばしいさかいをしたものと見える、あるとき、いさかひの結果婿さんの郭瞹の方では、云ふことに、こと缺いて公主に對し、御前は、おやぢが天子であると云ふのを恃むのか、自分のおやぢだつて、王さんだから天子に近い、ならうと思つたなら、なれないことはないのだと云つた、嫁さんの公主は、ぐつと癪にさはつて、いきなり、參内して、代宗皇帝に申し上げた、これをきいて、驚いたは、舅の郭子儀で、さなくも、公主を震はし、一門の榮華は世人の嫉視の中心となつて居ることは知つて居るから、謹愼の上にも謹愼して、愛嬌を諸方にふりまいて、なるべく、亢龍の悔なきやうに、心配して居るやさき、こんなことが、湧いて來たから、早速、忰の瞹を捕へて牢に入れ、ともかくも、朝廷の處分を待つて居ることゝし、自から御詫のため、天子に拝謁した處が、これはまた案外で、天子の方では、郭子儀に向ひ、莫迦か、つんぼでなくば、しふと、しふとめにはなれない、こどもたちの痴話喧嘩は一々とり上げるなと、仰せられた、實に捌けた申し條で、御天子樣が、自分の女子を臣下にかたづけられても、これぐらゐに捌けねば、甘くゆかぬものである、代宗皇帝だつて、決して寛仁大度の君主でない、隨分在位十八年の間には、權臣を殺し勢家をも滅したこともある、然るにかう捌けて出たところを見ると、子を思ふ親心に、貴賤の別はないものである、女子もつた親は、御天子樣でも、嫁入り先きへは、遠慮をせねばならぬ、まして、下々のものが、娘をやり、婿をとり、自分達はしふとしふとめとなつて、圓滿に行くには、餘程遠慮をせねばならぬ、これがつらいことで、わけて、女子の兩親は、辛抱の上に、辛抱をせねばならぬことゝ思ふ。

(五)[#「(五)」は縦中横]とにかく女子もつ兩親は、心配なものと見えて、古代印度の文學に、これを歌ふた詩は、澤山ある、其の一を擧ぐれば左のごときものである。
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〔ja_teti kanya_ mahati_ha cinta_ kasma_i pradeyeti maha_n vitarkah[#hは下ドット付き]〕 |
〔datta_ sukham[#mは下ドット付き] prapsyati va_ na veti kanya_pitrtvam[#rは下ドット付き。mは下ドット付き] khalu na_ma kastam[#stはともに下ドット付き].〕||
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女子は生れたりとさへ云へば、この世にて何人に嫁入らすべきかと云ふ心配は大なり、嫁したるのちも幸福を得るか否やにつきても心配は大なり、女子をもつ親の境遇は實に
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