+ sesa《セーサ》 とするのは、そもそも曲解であると思ふ。これは Samgha《サングハ》[#mは上ドット付き] + adisesa《アデイセーシヤ》 と分析すべきものである、梵語に改めて見れば Samgha《サングハ》[#mは上ドット付き] + 〔atic,esa〕《アテイシエーシヤ》[#sは下ドット付き] である、これならば僧始終でなくて、立派に僧殘と云ふ意味になる、ちやうど、日本語で、山《ヤマ》と寺との二語で、山中の寺と云ふ言葉を作つたときは「やまでら」と云ふて、「やまてら」とは云はない、即ち「でら」の「て」は「で」となる、「やまてら」と云つたら古では叡山と園城寺とならべ云ふときの略稱である、又、矢《ヤ》と木《キ》との二語で「矢につくる木」と云ふとすると、「柳《ヤナギ》」と云つて「やなき」とは云はない、即ち木の「き」は「ぎ」とかはる、これと同じく古代印度の俗語では、本來の清音は即ち、tとかkとか、pとか云ふやうな音は、もし二個の母音即ちaとかiとかuとか云ふやうな音に挾まつたときは、濁音のbとかgとかdとかになるが常である、一例を擧ぐると「※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82
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