とが出來る、ス※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ヤム、※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ラ(自選の式)と云ふがこれである、悉達太子が耶輸陀羅姫を娶られたときは即ち此の式によつたものである、
今、此古代印度の聖人即ち立法者が正當と認め又正當ではないが事實上已むを得ぬとして認めた結婚法と佛教の戒律の上に現はれた結婚法とを比較して見ると、十誦律に所謂索得と云ふは、正に「マヌ」の法典に見えた阿修羅式結婚法で即ち賣買婚である、次に水得と云ふのは梵天式結婚法で、第三に破得と云ふは、正に羅刹式結婚法即ち掠奪婚に相當するやうであり、第四の自來得又は有部律の自樂婦と云ふのは「マヌ」の法典に所謂健達婆式結婚法に相當するやうであるが其の以外の結婚法は、いづれも「マヌ」の法典のみならず古代印度の法典には見えぬ、衣食婦とか、共活婦即ち夫婦共稼ぎの必要から出來た妻であるとか、須臾婦即ち一時の共同生活に基く妻とか云ふ樣な名稱を見るに戒律の注疏の出來た時代は最早、「マヌ」の法典や「ヤヂユナ、※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ルキア」の法典の編纂せられた印度とは大に社會の事情を異にして居ることが判然する、社會が變遷すれば宗教や法律も變つて來る、自分は、かつて印度の中世に出來た戲曲を讀んで、年頃の男女の戀愛を應酬する際、佛教の尼僧が、戀文使となつて居ることを見て、佛教戒律制定當時の印度に想到し、印度の世相の變遷に驚いて、佛教の尼僧をしてかくあさましきさまに立到らしめたのは果して尼僧のみの罪であるか、中世印度の社會の罪であるかどうかを自ら竊に問ふたことがあつた、しかし、今日になつて考へて見るとかゝることを問ふた自分の愚を笑はずには居られない。(七月二十九日稿)



底本:「榊亮三郎論集」国書刊行会
   1980(昭和55)年8月1日初版発行
初出:「光壽 第二號」
   1921(大正10)年
入力:はまなかひとし
校正:土屋隆
2008年3月14日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたつたのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全14ページ中14ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
榊 亮三郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング