付き] kulam icchanti mista_nnam[#stはともに下ドット付き] itare jana_h[#hは下ドット付き]〕||
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(二)[#「(二)」は縦中横]中世印度の諺に云ふてあることだが、婚姻の場合に際し、一家の人々の意見がまちまちになることを叙した詩がある、この詩の意義は、大正の今日我が日本にても隨分適用せられ得べきことゝ思はれるから、古代の詩で、しかも梵語で書いたもので、現代式の文明人には迂濶千萬だと思はるゝこともあらうが、こゝに譯出することにした、まあざつとかうである、
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未婚の乙女は、とかく姿のよきを撰び、母たる人は、財の多からんことを、父たる人は吠陀(ベーダ)の智識の博からんことを希ひ、親族の人々は門地を、あかの他人は食膳の旨からんことを希ふ
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と云ふのである、未婚の乙女子であるから、父母の温き保護の下に生ひ立ちて、深き慈愛の光に青春の氣が溢れて居る、まだ生活とは如何のことであるか、渡世と云ふことは如何ほど苦しいことであるかは知らぬ、米のなる木も知らねば麥の※[#「睹のつくり/火」、第3水準1−87−52]きやうも知らぬ、接する人とては、七光もすると云ふ親の威光にあこがれて、何かうまいことにありつかふとて出入する人々であり、讀むものとては稗史小説に現はれた才子佳人の奇遇談か、金殿玉樓に住む人々のいきさつか、ぐらひのもので、夏畦に勞作する農夫のことも、秋旻に澣濯する漂母のことも、きくことはすくない、きくことはあつても自分でやつて見ないから、ほんとの智識とはならない、であるから自分の將來の夫となり、婿となる人は姿は清く、顏たちがよくあることは第一に心に起るべき問題で、働きがあるとか、金儲がうまいとか云ふやうなことは思ふにしても第二にすると云ふは、おしなべての女の情である、これにひきかへ、嫁入頃の娘もつ母親の方にしては、四十歳前後の年頃であるから、舅姑への奉養、主人へのつかへ、兒子の養育、使用人の操縱、出入のものどもに對する心勞、一家の活計等につき、所謂渡世の辛酸はなめた結果、貧しければなほさらのこと、富んで居たからとて、欲には際限がないから、金さへあればと思ふことは常に心一杯になつて居るは、大方の主婦の心情である、支那の話ではあるが、戰國の時代蘇秦が遊學して困んで歸家
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