方では、其の法律智識は未だ國民の間に、充分に浸潤洽浹して居ないから、動もすれば、法律上の智識は、少數者の占有物に歸し、其の少數者は、これを惡用する恐はあつて、道徳上からは社會に批難すべきことであつても、法律上制裁はないことは、どしどしやつて耻ぢないと云ふことが出來る、法律上、結婚の媒酌人の有無は問はぬが、今日の日本で、相當の媒酌人なくして、年頃の男女が結婚すると云ふことは、道徳上善良なることとは云へぬ、又相當の家で正式に縁組をする際、媒酌人のないと云ふことは、先づない、今日の日本では兎も角、古代の支那、印度では、殊に然りである、支那の古代では禮を以つて縁組せねば、野合と云つた、現に孔子の父は叔梁※[#「糸+乞」、第3水準1−89−89]と云つて、顏氏の女と一所になつて、孔子の樣な聖人を生んだが、禮を以つて結婚しなかつたと見えて、野合したと歴史家は云つて居る、如何なる點に於て、禮に缺くることがあつて、孔子の父の結婚を野合と云つたかは知らぬが、いづれの國、いづれの時代でも、年頃の男女が結婚する場合に、相當の媒酌人の存在は、禮に於て必要なことと思ふ、然るに小乘律ではあるが、佛教では、堅く佛弟子に對し媒嫁即ち結婚の媒酌をなすことを禁じて、犯すものには、女人の身に觸るゝことや、男女淫樂のことを説くと同樣に、僧殘罪を以つて問ふて居る、隨分重き罪となつてある、常情から見ると、男女の淫樂の幇助となるやうな媒介は、惡いことに相違ないが、正式の結婚を媒酌することには、何等の支障のありやうはない、戒律上にこれを嚴禁して居るは如何なる理由に基くか、種々支那譯や、「パーリ」文の律典を參照して見ると、假令ひ正式の結婚の場合であつても、結婚後、うまく行けば論はないが、若しうまく行かぬときは、媒酌人は、嫁の兩親眷屬からいろ/\批難せられ、其の媒酌人が、佛弟子であつた場合には、累を僧團に及ぼすからとの事である。
これを機として、少しく、結婚が其の當事者、當事者の家庭に及ぼす影響に就いて述べて見、引いて、佛教の戒律と、古代印度の法典とを比較して見たい思ふて、本論を草した次第である。
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