+ sesa《セーサ》 とするのは、そもそも曲解であると思ふ。これは Samgha《サングハ》[#mは上ドット付き] + adisesa《アデイセーシヤ》 と分析すべきものである、梵語に改めて見れば Samgha《サングハ》[#mは上ドット付き] + 〔atic,esa〕《アテイシエーシヤ》[#sは下ドット付き] である、これならば僧始終でなくて、立派に僧殘と云ふ意味になる、ちやうど、日本語で、山《ヤマ》と寺との二語で、山中の寺と云ふ言葉を作つたときは「やまでら」と云ふて、「やまてら」とは云はない、即ち「でら」の「て」は「で」となる、「やまてら」と云つたら古では叡山と園城寺とならべ云ふときの略稱である、又、矢《ヤ》と木《キ》との二語で「矢につくる木」と云ふとすると、「柳《ヤナギ》」と云つて「やなき」とは云はない、即ち木の「き」は「ぎ」とかはる、これと同じく古代印度の俗語では、本來の清音は即ち、tとかkとか、pとか云ふやうな音は、もし二個の母音即ちaとかiとかuとか云ふやうな音に挾まつたときは、濁音のbとかgとかdとかになるが常である、一例を擧ぐると「※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ラルチ」の俗語語典《プラークリタプラカーシヤ》に 〔Ritva_disu to dah〕[#Rは下ドット付き。sは下ドット付き。hは下ドット付き] と云ふ規則がある、リツ(ritu[#rは下ドット付き])等の梵語ではtはdとなる意で、〔atic,esa〕[#sは下ドット付き] の梵語が adisesa となることは、これで明白である、だから梵語ならば 〔Samgha_tic,esa〕《サングハーテイシエーシヤ》[#mは上ドット付き。2つめのsは下ドット付き] と云つたものが俗語で 〔samgha_disesa〕《サングハーデイセーサ》[#mは上ドット付き] と發音する慣例になつて居つたに相違ない、前にも申した通り「パーリ」語と云ふものは多數學者の云ふやうに決して佛在世の當時の言葉でもなく、又、印度の一地方の方言でもなく、云はゞ佛教の教團の中に出來た非常に發達した文學語であるから、俗語から「パーリ」文にかき直すときに、てつきりこれは samgha[#mは上ドット付き] 〔a_di〕 sesa だと誤解してdの音を其のまゝに放置したのがそも/\混雜を生じたもとで、少くも二千年間、敬虔なる
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