にもつて問ふたるに、答ふる方ではパーリ語の(〔Samgha_disesa〕[#mは上ドット付き])を頭にもつて答へたやうだ、婆《※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]》又は阿婆に決して初と云ふ意味はないが「アーディ」には、前きに、しば/\云つたやうに始と云ふ意味がある、此の邊の思ひちがひから、あのやうな變な文が出來たことゝ思はれる、この事に關しては後に更に論ずることもあるから今は何とも云はぬ、要するに僧殘罪と云ふ支那の譯語に對しては南北の佛教に二樣の原語があつて一樣でないと云ふことだけ讀者の記憶せられんことを望むまでゝある。
しかし戒律を制定せられたかたは、佛自身であつた筈だが、衆學法などのやうな行儀作法に關する輕い規則は時により、處によりて後人が多少の改易もあつたことゝ思ふ、現に支那に存在する諸部の律文を見ても、此の間には、多少の出入損益はある、しかし何はともあれ、波羅夷罪に次いで重大な犯罪である、僧殘罪は決して恣に後人の取捨損益を許さない筈のもので、現に諸部の律文は其數が十三と云ふに於て一致して居る、從つて其の名稱も、佛在世の時代から存在して居つたことゝ見るべきである、然るに其の名稱の由來を見るに、一方では此種の罪を犯したものは、僧團の「あまりもの」とせらるゝからだと云ひ、他方ではこれを處分するには、始中終、僧團の集會の上で定むることが必要だからだと云ふ、佛が在世の當時此の名稱があつたことゝすると、佛が如何なる趣意で此の名稱を制定せられたか、あるときは、一方の趣意、あるときは又、一方の趣意で、かゝる名稱を用ひられたとは信ぜられない、必ずや確固たる理由又は趣意を以てかゝる名稱を用ゐられたに相違ない、然るに、これに種々の趣意を附して、變な説明を附し、はては行き詰つて、たゞ義味をとれ、其の文字を究むる必要はないなどに云つてしまつては、甚だ、佛に對してすまぬ心地がする、何とか二者の中、いづれかにきめたい、自分一個としては犯罪の處置につきて、始中終、僧團全體の出席を要するものは必ずしも僧殘罪には限らない、これより重き波羅夷罪の處分につきても然りである、だから「パーリ」語の「サング※[#小書き片仮名ハ、1−6−83]ーディセーサ」に對する説明は、はなはだ、感服せぬ、何はさておき、この語を分析して Samgha《サングハ》[#mは上ドット付き] + 〔a_di〕《アーデイ》
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