とを辨じて居るが、吾人から見れば、いづれでも差支へはない、書物が出來て、風俗習慣は出來るものでなく、風俗習慣が出來てから、これに關する書物が出來るのである、早い話が日本の今日でも、古事記や、日本書紀に書いてない神樣が多い、中には非常に民衆の崇敬の中心となつて居らるゝ神々はある、稻荷さんだことの、金毘羅さんだことのと云ふは其の一例である、いづれも崇敬せらるべき相當の根據があつてのことであらうが、古事記にもなければ日本書紀にもない、書物にあつてもなくても此等の神々は昔から日本の國土のどこかに祀られて居つたことは事實である、「サティ」の習俗も古くから印度に存在して居つたことは否定出來ぬ、だから女子持つ兩親は身分が高ければ高いほど、女子の爲めに將來の婿がねを定むることは心配であつたに相違ない、身分は低ければ、低いだけに、また女子の將來に於ける生活に關し、兩親の懸念は並大抵ではない、隨つて結婚の媒酌をする人の責任も今日の日本に於けるよりは、重大であつて、自己の品位責任を顧慮する人々には、容易に出來ないことである、だから佛は弟子に對して婚姻の媒介を禁ぜられて犯すものは僧殘罪に問はるることになつて居る、僧殘罪とは波羅夷罪についで重大なる犯罪であることは誰も承知のことであるが、僧殘と云ふ語の意義は如何と云はれると恐らく何人も明白に答へ得る人はあるまいと思ふ。
(六)[#「(六)」は縦中横]梵語學者は Samgha《サングハ》[#mは上ドット付き](僧團)〔avac,esa〕《ア※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]シエーシヤ》[#sは下ドット付き](殘餘)の二語が結合して連聲の規則で「ア」の音が二つつゞくから、長くなつて 〔Samgha_vac,esa〕《サングハー※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]シエーシヤ》[#mは上ドット付き。2つめのsは下ドット付き] 即ち僧團の殘餘又は僧殘と云ふことになるからと云つて毘尼母經第七(寒帙九、三十四丁左)
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(一)[#「(一)」は縦中横]云何、名僧殘、僧殘者所犯僧中、應懺悔、不應一人邊乃至二三人邊得懺悔、衆中懺悔名爲僧殘、
(二)[#「(二)」は縦中横]一切比丘所懺悔事皆應僧中、僧爲作是名僧殘
(三)[#「(三)」は縦中横]又言僧殘者、殘有少在不滅名爲僧殘
(四)[#「(四)」は縦中横]又言僧殘者
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