から、なほさらのことゝ思ふ、また資産はなく、力量はなくても高い門地でもあつて、當人はともかく、祖先の中に、國家に對して勳功があつたと何人も認めるほどの名家であつたならば、たとひ父たる方がなく、母たる方が財産の點から多少の異議を申し立てゝも、已に双方の結婚は事實上出來たことではあるし、他から勸めて、これを承認さしたかも知れず又其の亡父の恩を受けた人々はかく取計ふは至當であると自分は思ふ、然るにこれらの條件の一だに具備せず、又具備して居つたかもしれないが、不幸にして兩親親族の認識さるゝ所とならなかつた男子を選んで己の夫とした女子は、たしかに、不仕合せであると自分は思ふ、
(四)[#「(四)」は縦中横]年頃の女子が嫁に行く以前に、一家の中に、これだけの心配があるが、さて嫁入らして見ると、女子の兩親は申すに及ばず、婿となつた方の兩親にも非常な心配がある、支那の諺に痴でなく聾でなくば、阿翁阿家とはなれないと云ふて居る、即ち莫迦でなく、つんぼでなくば、舅や姑になれないと云ふことである、是れはなみなみの人が云つた言でない、唐代の代宗皇帝の云はれたことで、恐多くも御天子樣の仰である、讀者も知つて居らるゝことゝ思ふが、代宗皇帝は、徳宗皇帝の先代で、徳宗皇帝のときに日本から弘法大師や傳教大師が入唐せられたのである。皇帝には、十八人姫君があつて其の中第一第二の姫君は、早くなくなられ、第三の姫君は、裴家に降嫁せられた、裴家は、李唐の先祖が兵を晋陽に起して以來の佐命の臣裴寂の後である、第四の姫君は、昇平公主ときこえさせて、郭家の瞹と云ふ息に降嫁せられたが、この瞹と云ふ人の父は有名な汾陽王郭子儀で、素と身分は卑くかつたが、玄宗皇帝の御宇、天寶の末つかた、安禄山の大亂に、哥舒翰や、李光弼などと共に賊を討し、一旦傾覆せんとした李唐の天下を囘復した功臣で、王に封ぜられた人であるから、無論、息の嫁に天子樣の姫君を頂戴したとて、家柄には不足はないが、どういふものか息と昇平公主とは、夫婦仲はよくない、一方では皇女であつただけに、きてやつたと云ふ風なこともあつたであらふし、一方では、父の功勳を鼻にかけて居たこともあつたらふし、しばしいさかいをしたものと見える、あるとき、いさかひの結果婿さんの郭瞹の方では、云ふことに、こと缺いて公主に對し、御前は、おやぢが天子であると云ふのを恃むのか、自分のおやぢだつて、王
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