比亞人が波斯人に負ふ所は尠くない。就中、通商または航海に於ては、古代中世の波斯人は明かに亞剌比亞人の先輩であつた。のちに亞剌比亞人の領土となつたが、其の開拓者または最初の施設者は波斯人であつた。一例を擧ぐれば、亞弗利加の東海岸に於て「ザンヂバル」と云ふ國があります。亞剌比亞人が此の國から奴隸を買取つて諸國に賣出すから奴隸の國と呼び、「ザンヂバル」と申しまするが、よく/\其の語の起源を尋繹しますると、「ザンヂバル」の「ザンヂ」は波斯人の言葉で「ヂエンヂ」であつて、黒人と云ふ語から轉訛したものである。また「ターヂツク」(〔Ta_jik〕)即ち、支那で大食國など云ふときの大食でありますが、これは梵語の「ダーサ」例せば「カーリダーサ」など云ふとき「ダーサ」に語源上匹敵する波斯語の「ダーヂツク」から來た言葉で、もと/\波斯の支配階級が農商工の被支配階級に對して用ひた侮蔑の語であつたが、亞剌比亞人が波斯帝國を滅して、其の支配階級を滅したのちでも、農工商の階級に對して從來の呼稱を襲用した次第でありましたから、大食國とは、亞剌比亞人の主權の下にある波斯民族の義でなければならぬ。故に支那で云ふ大食國を以て直ちに亞剌比亞民族の邦とするは、政治的にはともかくも、民族的意味から見ますと聊か不當なる心地がせぬでもない。
論じて茲に至れば將軍米准那の姓字は、亞剌比亞系の「ミール」と波斯系の「ゼーダ」又は「ザーダ」とから成立して居るから、將軍の民族的所屬は大食國ではなかつたか如何、と云ふ問題に到達するが、これに對して私は、唐代に所謂大食國の地理的位置、殊に天寶十二年の初頭に於て、玄宗皇帝が含元殿に於て内外國人の年賀を受けた際、我が國から派遣せられた遣唐大使、藤原の清河や古麿等が最初西畔第二大食國の下に置かれましたが、其の時の大食國はいづれの亞剌比亞人の國であつたか知る由もなく、たゞ舊唐書に大食國は波斯の西にあり、兵刄銛利、戰鬪に勇なりとの記事だけではあまり漠然として居るから、今日の處では「パルテイヤ」帝國の王族と、本末枝幹の關係が甚だ濃厚であつたと見るべき「パツラ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]」國の所屬であつたと云ふに止める。
[#ここから横組み]
Skanda−varman
│
Vira−varman
│
Skanda−varman(450−475.A.D.)
┌─────┴────┐
│ │
Sinha−varman(475−500) Visnu−gopa
│
Skanda−varman(500−520) Sinha−varman
│
Nandi−varman(525−550) Visnu−gopa
│
Sinha−varman(550−575)
[#4段目、Sinhaのnは上ドット付き、Visnuのsnはともに下ドット付き]
[#6段目、Visnuのsnはともに下ドット付き]
[#7段目、Sinhaのnは上ドット付き]
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
Sinha[#nは上ドット付き]−varman(550−575)
│
Sinha[#nは上ドット付き]−visnu[#snはともに下ドット付き](575−600)
│
Mahendra−varman(600−630)
│
Nara−sinha[#nは上ドット付き]−varman(630−668)
│
Mahendra−varman(668−670)
│
〔Paramec,vara〕−varman(670−690)
│
Nara−sinha[#nは上ドット付き]−varman(690−715)
│
〔Paramec,vara〕−varman(715−171)
[#ここで横組み終わり]
たゞ此の際此の王朝の起源について、はつきり申上ぐることの出來ることがあります。此の王朝は、西暦紀元第三世紀の前半まで南印度に君臨して居つた娑多婆漢那《シヤータ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ーハナ》王朝(〔C,a_tava_hana〕)の後を承けまして、最初は方伯連帥の資格で那伽《ナーガ》族、チユフツ族等の諸侯伯と駢立して、南印度の東岸「クリシユナ」(Krisna[#rsnはそれぞれ下ドット付き], Kitsna)河の河口に都を建て後に王位を稱するに至つたと云ふ事であります。龍樹菩薩と同時であつたと云ふ市演得迦王、宋の求那跋摩の譯した龍樹菩薩爲禪陀迦王説法要偈の經名に見えて居りまする禪陀迦王は、恐らく娑陀婆漢那《シヤータ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ーハナ》王朝の末期に出でて、佛教の僧侶を保護して、或は阿育王の建てた「ブヒルサ」古代の「※[#濁点付き片仮名ヱ、1−7−84]デイサ」(Vedisa, Bhilsa)の塔を修築し、或は諸方に洞窟を掘つて僧坊に宛て、或は盛んに佛寺を建立した 〔C,a_ta−karni〕《シヤータ、カルニ》[#nは下ドット付き] 王の名の訛略即ち「シヤーンタカ」〔C,a_nta−ka(rna)〕[#後のnは下ドット付き] であるまいかと私は思ひまするから、茲に問題になつて居りまする「パツラ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]」王朝とは何等の關係はありませぬ。また此の王朝の特徴は、航海通商に力を効したことで、支那に於ける禪宗の始祖と云はるゝ達磨大師は香至國(〔Ka_n~ci−pura〕)の王子であつたとの事から見ると、「パツラ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]」種族の出身と見なければならぬ。達磨大師は南北朝時代に梁の武帝の普通元年廣州即ち廣東に來たとの事であるから、西暦紀元五百二十年で金剛智三藏の入唐に先立つこと二百年であります。此の時代の「パツラ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]」王朝は二分せられ、香至國以外に「グンツール」(Gunthur)と「ネロール」(Nellore)との間にあるパラクカダ(Palakkada)と云ふ地に都がありましたから、いづれの王朝の王族であつたか判然せぬが、とにもかくにも、達磨大師は、「パツラ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]」族の王子であつたに相違ない。刹帝利種で、金剛智三藏のやうな婆羅門族でなかつたことは明白である。其の廣州に入つた當時は世壽幾何であつたか判然せぬが、西暦紀元五世紀から六世紀に至りて、パツラ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]種族の王には、一方では「スカンダ・※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ルマン」あり(四百五十年―四百七十五年)、(別紙表參照)「シンハ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ルマン」あり(四百七十五年―五百年)、「スカンダ・※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ルマン」(五百年―五百二十年)、「ナンデイ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ルマン」(五百二十五年―五百五十年)あり、他方では、「※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]シユヌ・ゴーパ」あり、「シンハ・※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ルマン」あり、また「※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]シユヌ・ゴーパ」あり、また「シンハ・※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ルマン」あり(五百五十年―五百七十五年)、達磨大師は梁の武帝の大通元年遷化した筈だから、いづれ前に掲げた王樣の誰かの子であつた筈である。其の血脈の中には、印度の武人の血が流れて居たに相違ない。梁の武帝の小乘的思想を無功徳の三字で喝破しただけの勇氣はあつた人に違ひない。また見樣によつては、羅馬武士に劣らぬ「パルテイヤ」武士の血が流れて居つたとも見られる。世人は、達磨大師の面壁九年の話やら、神光との問答の話や、大師に關する種々の奇怪なる話が如何にも常情を以て測ることの出來ぬを見て、達磨大師西來の眞面目につき種々の懷疑的評論をなす人もある。私どもも、達磨大師の支那に來たのちの傳説は後人の作であつたと云ふ説には、或る程度まで尤もだと思ひますが。達磨大師に限らず、當時印度に於て漸く組織的になり、體形を具するに至つた新佛教の哲學及びこれに基づきて現はれた修養・教育方法を傳へんため、支那に來た眞諦三藏等が、實利一點張りの南方支那人、官仕して利禄を求むることに終生專念する南方の支那人、華靡、駢儷對偶の文體に浮身をやつす支那の文人または知識階級に接して、適當なる法器を發見し得るに如何に苦心し失望したか、達磨大師に關する物語から推測することが出來ると思ふものであります。達磨大師が印度から支那へ西暦紀元五百二十年に來たか否か、梁の武帝と問答したか否か、乃至一葦の葉に身を托して、揚子江を渡つて北方支那に向つて赴いたか否か、私どもの問ふところでない。たゞこれによりて、印度に起つた大乘佛教の思想が南方支那を見限つて北方支那に移り、北方支那にも僅に履半足だけを殘して再び流沙葱嶺の西に歸つたと云ふことで、西暦第六世紀の前半には、南北支那いづれも大乘相應の國でなかつたことを認知すれば、それでよろしいのであります。それから約二百年を距てて、同じ「パツラ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]」族の國から、印度宗教の精華、大乘佛教の極致たる眞言密教を金剛智三藏が來りて支那に傳へ、支那の民族的宗教の道教と融合して、渾然相支吾することなき密教を、儒道佛の三教に通じた宗祖大師によりて、達磨大師の時代から三百年の後に我が國に將來せられたのであります。其の間に、達磨大師の提唱にかゝる新興佛教に驚魂駭魄の支那の知識階級は、これを理解し、體得するまでに、先づ具舍の研究から始めて確實に佛教の經論に用ひられたる用語、術語の觀念を把握せねばならなかつた。唯識の知爲眞の認識論から出發して、八不中道、百非皆遣、人法無我の高遠なる哲理を把握せんとして把握出來ず、體得出來ずして、動もすれば、淺薄皮相の懷疑に陷り、絶望の地獄に陷らんとするに臨みて事事無礙、理事圓融の哲理が現はれて、やがて即事而眞、色心一如、凡聖不二の宗教が建立せられ、小乘の佛教に説く地獄極樂の説に拘泥し、現世死後の應報の説に心を奪れた民衆は、天空海濶の自由の天地に活動の場所を發見し、輪王無價の髻珠は外に求むるまでもなく、却つて大なる自我の中にあり、胼胝窮子の辛苦して尋ね※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]はる眞の父は、遠きに求むるまでもなく、却つて自己の眼前に居ることを悟らねばならなかつた。今日より遡りて考へて見ると、達磨大師が通商立國を國是とした南印度の國土、海に入りて寶を求むる事を建國の主義とした南印度の都邑に於て、※[#「酉+慍のつくり」、第3水準1−92−88]釀發生した印度文化の最高潮に達した時代の思想を支那に齎らした時代、また眞諦三藏が、南北印度交通の要衝として印度の天文地理學者が經度《メリデヤン》線の起點として定めた鬱邪尼《ウヂヤイニイ》の都の學術科學を將來した時代、即ち西暦紀元第六世紀の前半から、同じ通商立國の國即ち香至國《カーンチプラ》の艦隊に護られて金剛智三藏が入唐の時代まで、大約二百年の間かゝつて、支那に於て漸やく眞の大乘思想が會得せられ體認せられた次第でありまして、法顯三藏が其の著、佛國記中、巴連弗邑 〔Pa_tali−gra_ma〕[#tは下ドット付き] の節に於て述べ居られる如く、僅に羅越宗 〔ra_jya−sva_mi〕, また智猛の所謂羅汰私寐迷 〔rattha−sva_mi_〕[#tはともに下ドット付き](〔ra_stra〕[#stはともに下ドット付き]−〔sva_mi_〕)と稱せらるゝ一婆羅門子により北方印度に於て保護し支持せられたに過ぎなかつた大乘思想は、此の二百年の間に於て、支那に於ける知識階級の常識となり、士大夫修養の指導精神となり終せたのであります。かくなりまするまでには、印度に於ては、善財童子は道を求めて五十三の智識を訪問して請益せねばならなかつた。常啼 Sada−praru
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