恐縮致して居りまするが、また一方ではあながち金剛智三藏や米准那と、日本の東部の江戸灣、靜岡灣即ち富士の靈峰が、朝日の光を受けて影を太平洋上になげる地方のこととは無關係であると斷定出來ぬと思ひます。甚だ牽強附會のやうでありますが、金剛智三藏が開元七年または八年、長安に入り、二十九年入寂せられるまでは約二十有餘年間ありますが、其の間は日本に於て、開闢以來と申しませうか、建國以來と申しませうか、とにもかくにも、古より未だ曾てなき文化事業が經營せられ、完成された時代で、日本が支那を介して印度または西域の文化を吸收するに最も力を効した時代でもあり、また支那人の間には日本を認めて、日出の國、義和が建てた國だと信ぜられ、神仙の棲遲する國、長生不死の靈藥の生ずる地域であると信ぜられたのみならず、航海者として支那海に往來する西域の船舶が、日本または朝鮮に潮流の工合に漂着した事もあり、殊に東大寺落慶の齊會または庭儀に參列した樂人の中には林邑即ち今の佛領印度の南部、コシン、チヤイナに國を建てた占城の樂人も居つたことを見ると、これらの國から乘つた人々の船舶は、支那の船舶のみであつたとは信ぜられませぬ。昔から、支那の書物に著はされてある扶桑の國の位置は、もし架空の神話からでなく幾分の現實性ある知識から出でたものとすれば、富士の靈峰が太平洋の清波に影を投ずる地方即ち昔時のプサ國でなければなりませぬ。今日に於てもアイヌ語でプサと云ふ語が存在して、麻苧のことを意味して居りますが、此の語は、アイヌが本來の語であるか、或は天富命に從うて、江戸灣、靜岡灣一帶の地に楮麻を植ゑた大和民族の言葉から借り用ひたものか、否やの問題に至りては暫らく後賢の研究を待つことにいたします。
將軍米准那の舟師を支那に遣はした南印度の王は、捺羅僧伽補多跋摩《ナラシンハポータ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ルマン》と云ふ名の方で、跋摩(鎧)と云ふ語で終つてあり、正眞正銘の刹帝利種である事が明白であるのみならず、またパツラ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]族の王者であると云ふ事も判明して居ります。また捺羅僧伽《ナラシンハ》は、韋紐天第四の化身の名であります。即ち人身獅頭の化身で、惡鬼を退治せんため天より下界に降臨した韋紐天の名をつけたものでありますから、正眞正銘の印度アーリヤの信仰を持つた王者であつた事はこれでも知れます。たゞ問題となるは其の次に來るポータの語の意味です。船と云ふ義もあり、また四足獸の子と云ふ意味もあります。シンハは獅子ですから獅子の子と解しても差支へはなく、またパツラ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]王族が以前から鑄造せしめて其の領内に流通せしめた硬貨の紋章には、流石に通商立國の國是の國だけあつて二本の帆檣を建てた船の紋章が刻印せられてありますから、ポータを船と解しても差支へはありませぬ。孰れにしてもこれは大した問題とはなり得ませぬ。何故かと申しますると、今日まで知られて居るパツラ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]王族出身の王者の名には、單に捺羅僧伽跋摩と云ふ名の王は二人ありますが、いづれにも補多に該當するポータの語は名前の中に見えませぬからであります。しかし、私だけの意見を申上げますと、漢字の音譯、捺羅僧伽補多の六字の次に羅の字が一つ落ちて居るのではないかと思ふのです。さうとすれば、補多羅の三字に、梵語の pautra(孫)と云ふことになります。事實この王は別表に於ても御覽の通り、西洋紀元六百三十年から六百六十八年まで王位に居つたナラシンハ・※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ルマン王の孫に當つたと見えまして、パツラ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]族の習慣に從ひ祖父と同じ名を稱して居ります。ですから、補多の二字をパウトラの俗語化ポータと解して、俗語の形で支那に傳はつたと見ても差支へはありませぬ。金剛智三藏が支那に向はるゝ時代に、南印度の王で、捺羅僧伽の名を冠した王者は此の以外に居りませぬ。此の王の在位の年時は、西暦紀元六百九十年から七百十五年に亙つて居りますから、開元七年または八年、金剛智三藏の入唐の年は西暦紀元で申しますると七百十九年か、または七百二十年ですから、當時は、王位を去りてのち、四年乃至五年經過して居ります。次の王は、パツラ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]王族の習慣に基づき、祖父の名を襲うてパラメーシ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ラ・※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ルマンと申しまして、西暦紀元七百十五年から七百十七年まで位に居りました。國を享くること甚だ短くて、至つて薄祐の王であつたらしいのであります。
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Sinha[#nは上ドット付き]−varman(550−575)
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Sinha[#nは上ドット付き]−visnu[#snはそれぞれ下ドット付き](575−600)
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Mahendra−varman(600−630)
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Nara−sinha[#nは上ドット付き]−varman(630−668)
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Mahendra−varman(668−670)
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〔Paramec,var〕−varman(670−690)
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Nara−sinha[#nは上ドット付き]−(pautra? pota?)−varman(690−715)
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〔Paramec,vara〕−varman(715−717)
[#ここで横組み終わり]
話がこゝまで進んでまゐりますと、此のパツラ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]王朝のことにつきて御話申上げねば、佛作りて魂を入れぬやうな心地が致しますから、暫時話さして戴きます。パツラ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82] pallava 王朝の名は、梵語として見れば「花の蕾」とか「木の若芽」とか、「梢」とか云ふ意味の言葉でありますが、これはもと/\「パツフラ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]」(pahlava)とも「パツルハ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]」(palhava)とも申しまして、俗語から來たものである事は貨幣または碑文から證明せられてありますから、一概に花の蕾王朝、乃至若芽王朝など云ふ陽氣な景氣のよい名前に解することは出來ませぬ。而してパツフラ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]とかパツルハ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]とか云ふ俗語の形は、純粹のインド、アーリヤ系の言葉とも見えませぬ。寧ろ別の系統の言葉から轉訛したものの樣でありますから、之に便乘してパルテイヤ即ち支那で申しまする安息《アルサケス》國の國名と同一であつて、パツラ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]即ちパールダ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]説が出現して、一時は西洋の印度波斯學者の間に殆んど定説のやうになりましたのであります。序ながら申上げますが、パルテイヤ Parthia と申しますのもペルシヤと申しますのも畢竟するに方言的發音の相違で、東部北部のイラーン高原邊陲の波斯帝國の部分ではパルテイヤと申しまして舊い形を保有し、西部南部のイラーン高原の部分ではテイがシとなつて Parasia Persia となつただけであります。いづれも梵語のパルツフ又はプリツフ(parthu, prthu[#「prthu」のrは下ドット付き])、英語のブロード(broad)、獨逸語のブライト(breit)と、同系の印歐語系の言葉で「廣きもの」又は土地、國土の義を有する語であります。また安息アルサケースは、イランの東部から起りてバクトリヤから印度の北西部に亙りて國を建てた波斯語系の王朝の名で、西朝紀元前二百五十年頃から西暦紀元後二百二十六年までつゞいた王朝で、支那の歴史では秦の始皇帝頃から東漢の孝獻皇帝の禪讓の時までに亙つて居ります。日本では孝靈天皇の御宇の始頃から神功皇后の御攝政時代の第二十六年に相當致しまする年間で、印度ではかの孔雀王朝の阿育王の時代から龍樹菩薩と交渉のあつたと云はるゝ娑多婆漢那王朝の末期までの年代に相當し、隨分長くつゞいた王朝でありました。陸軍は強く、流石の羅馬の武力を以てしても、波斯と羅馬との勢力範圍の境であつたテイグリス(又はタイグリス)河を一歩も東へ進むことが出來なかつた。この王朝の王樣達の名前のつけやうを見ますと、きつぱりとは申されませぬが、大體から見て祖父または父の名を襲用した點は、前刻申上げました通り南印度のパツラ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]王朝の王樣達の名前のつけやうと類似して居ります。此等の點等から見て、パツラ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]王朝は安息國即ちパルテイヤ王朝の枝分であるとの説が出たものと考へられないこともありませぬ。今日ではパツラ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]族を以て、安息王朝の建設し君臨したパルテイヤ國出身であつたと云ふ説は下火になつて居り、また肝腎、此の説を提出して一時印度學者波斯學者をして、隨喜驚歎せしめた英國の學者が、進んで自説を取消して居るやうな有樣であるから、私どももかれこれ云うて進んで死灰再燃の勞に服せんとするのではありませんが、此の説はあながち反對論者の説にのみ耳を傾けて其の云ふまゝに任することは、學者の良心上出來ないのであります。反對論者は、パルテイヤ帝國の陸軍の強きことのみを見て、當時の波斯民族の海軍がアケメニード(Achemenides)王朝時代の波斯民族と同じく、依然印度洋亞剌比亞海の制海權を保有して居つたことに想到せず、ひたすら安息王朝の武士が肥馬に跨り堅甲を披て、勁弓大箭を以てイラン高原から出で、印度を蹂躙し、征服した歴史上の確證がないから、パツラ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]族の名稱がパルテイヤの名稱とは何等の關係ないと云ふが、アケメニード王朝以來、波斯民族の船舶は、西は阿弗利加の東岸から支那海に至るまで陸上に於ける王朝の興亡、隆替に煩はされずして活動を續けたことを思へば、印度の東海岸に通商立國の國是を以て國を立てたパツラ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]族を以て波斯民族の一支派でないとすることは、吾人の輙く承服出來ぬ所であります。
今日でも東は南方支那から西は阿弗利加に至るまで、或は水夫となり或は水先案内などを業務として海上生活をして居る、「ラスカール」(Lascar Lashkar)と云ふ種族があります。東洋から印度洋を通過して西洋に赴く船が港に寄ると、船に荷物を積み又は船から荷物を上げる人夫の中には、色こそ多少黒きやうだが、言葉から見ても又は容貌から見ても、深目隆準明かに波斯系のものであるのはこの「ラスカール」で、二千五百年の昔から「フヱニキヤ」人や「アラビア」人と共に波斯灣から出でて印度洋南海支那海の水上交通に貢獻した波斯民族の殘した種族であります。其の名稱から見ても、兵士または軍卒と云ふ意味ですから波斯語系の民族であることは明白です。以上申上げたことから舊説ではあるが、これに反對する人々の説も俄かに贊成出來ない譯であります。
波斯の古代「アケメニード」王朝時代と安息王朝時代との研究が未だ東西の學者の間に充分でなく、また波斯の中世紀薩珊王朝の時代の研究が未だ充分でない結果、古代を論ずるごとに、常に希臘史家の資料に基づきて事毎に希臘を推し、中世を論ずるごとに、亞剌比亞人の資料にのみ基づきて事毎に「アラビヤ」を推して、波斯の民族の文化と武力とを閑却する傾向あるを私は常に遺憾とするものであつて、古代のことは暫らく措きて論ぜざるも、西部亞細亞に於て、西暦第七世紀に於て、亞剌比亞人が「モハメツト」の指導の下に大帝國を建設し得たる所以は、畢竟するに「メソポタミヤ」と「ナイル」河流域との兩文化の繼承者たりし波斯帝國の文化を、亞剌比亞人が繼承し得た結果に外ならぬと私は常に思ふ所であります。今日に至るまで亞剌比亞語と思はれたものは、波斯民族の語であつて、亞剌比亞語となつたのは非常に多い。通商、工藝、政治、法律、宗教などの領域に於て、亞剌
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