_付き片仮名ヰ、1−7−83]シユヌ・ゴーパ」あり、また「シンハ・※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ルマン」あり(五百五十年―五百七十五年)、達磨大師は梁の武帝の大通元年遷化した筈だから、いづれ前に掲げた王樣の誰かの子であつた筈である。其の血脈の中には、印度の武人の血が流れて居たに相違ない。梁の武帝の小乘的思想を無功徳の三字で喝破しただけの勇氣はあつた人に違ひない。また見樣によつては、羅馬武士に劣らぬ「パルテイヤ」武士の血が流れて居つたとも見られる。世人は、達磨大師の面壁九年の話やら、神光との問答の話や、大師に關する種々の奇怪なる話が如何にも常情を以て測ることの出來ぬを見て、達磨大師西來の眞面目につき種々の懷疑的評論をなす人もある。私どもも、達磨大師の支那に來たのちの傳説は後人の作であつたと云ふ説には、或る程度まで尤もだと思ひますが。達磨大師に限らず、當時印度に於て漸く組織的になり、體形を具するに至つた新佛教の哲學及びこれに基づきて現はれた修養・教育方法を傳へんため、支那に來た眞諦三藏等が、實利一點張りの南方支那人、官仕して利禄を求むることに終生專念する南方の支那人、華靡、駢儷對偶
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