フ文體に浮身をやつす支那の文人または知識階級に接して、適當なる法器を發見し得るに如何に苦心し失望したか、達磨大師に關する物語から推測することが出來ると思ふものであります。達磨大師が印度から支那へ西暦紀元五百二十年に來たか否か、梁の武帝と問答したか否か、乃至一葦の葉に身を托して、揚子江を渡つて北方支那に向つて赴いたか否か、私どもの問ふところでない。たゞこれによりて、印度に起つた大乘佛教の思想が南方支那を見限つて北方支那に移り、北方支那にも僅に履半足だけを殘して再び流沙葱嶺の西に歸つたと云ふことで、西暦第六世紀の前半には、南北支那いづれも大乘相應の國でなかつたことを認知すれば、それでよろしいのであります。それから約二百年を距てて、同じ「パツラ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]」族の國から、印度宗教の精華、大乘佛教の極致たる眞言密教を金剛智三藏が來りて支那に傳へ、支那の民族的宗教の道教と融合して、渾然相支吾することなき密教を、儒道佛の三教に通じた宗祖大師によりて、達磨大師の時代から三百年の後に我が國に將來せられたのであります。其の間に、達磨大師の提唱にかゝる新興佛教に驚魂駭魄の支那の知識
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