闍梨の弟子|法全《ハツセン》の弟子でありましたから、宗祖大師が唐より御將來の金剛智三藏に關する記録に比すれば後から出來たもので、貞元録も開元録に比すれば後に出たものでありますから、私は金剛智三藏は、南天竺の摩頼耶國に生れ、婆羅門種であつたことを確信致すもので、三十有餘年前、私の意見を發表致して置きましたから更めて茲に申上げません。貞元録によりましても金剛智三藏は、南天竺將軍米准那の薦聞によつて遂に南天竺の人と云ふことになつたとの事でありますから、御出生地は南天竺であつたか中天竺であつたか、種族は刹帝利種であつたか、婆羅門種であつたかは、暫らく詮議を見合はすことにして、三藏が活動した地域は、中天竺でなく南天竺であつたことは明白で、また南天竺の國王が支那に派遣した舟師に乘られて、支那へ來られたことは確實でありますから、これにつきて私の論議を進めたいと思ひます。
密教に關し内外學者の研究を湊合して比較稽考致しますると、日本密教の光が、他の國々の密教に比較して一段と輝きて居るやうに思はれ、一千一百有餘年前、宗祖弘法大師が支那海の驚風狂瀾を冒し瘴癘の※[#「さんずい+珍のつくり」、133−7]
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