士が、「隋唐時代に支那に來住した西域人に就いて」と云ふ論文を昭和二三年頃に發表し、私も其の論文の別刷を博士から頂戴致して居りますから、諸君の中で密教の研究史上東洋一般のことが知りたいと思はるゝ方は是非一讀を願ひたいが、桑原博士の論文中には、今日講演の問題となりて居る米准那のことは何等の記載もなく、隨つて研究もありませぬ。しかし其の他の點では、私共の蒙を啓くことが多くありまして、流石に生前中は、東洋史專攻の人々から泰山北斗の如く仰がれただけあります。亡友に對する感想の發露はやめに致しまして「米」の字の研究にとりかゝります。
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「米」(イ)此の字を國名にした國が、中央亞細亞「サマルカンド」の東にありました。彌秣賀と云ふのはこれであります。唐代ではこれを「米」國と申しましたが、これは彌秣賀の初の字彌の音譯か、また全部の字の義釋であるか判然しませぬが、ともかくも、唐代ではこの國を「米」國と云つた例から見れば、米准那の三字は、「米國生れ」と云ふ義になります。即ち、中央亞細亞の一小國で何等海洋に縁故のない國に生れて、南印度の國王に仕へ、其の舟師を率ゐて支那に向つた將軍の姓名と
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