航海探檢者のやうなものでなくてはなりませぬ。まして西暦紀元七世紀の頃の印度洋・南洋の航海には、薩珊《サツサン》王朝は亡びて亞剌比亞人がバグダツドに奠めた首都の文化武威が、未だ舊波斯民族の信頼と心服とを贏ち得るに[#「贏ち得るに」は底本では「羸ち得るに」]至らず、波斯灣一帶の地方から印度の西海岸乃至亞剌比亞の東海岸に碁布羅列せる波斯民族の植民地は、海賊の占據する所となりしのみならず、印度の東海岸から南洋諸島を經由して支那の廣州に達する船舶の引率者が、天文地理乃至潮流・氣候等の知識も充分でなかつた事は、此の頃續々發見せらるゝ波斯亞剌比亞の航海者の圖に於て見らるゝ如く不完全極まるもので、大部分は冒險者の個人的勇氣と運勢とに任すより外なかつたのであります。されば、金剛智三藏にしても、金剛智三藏の乘られた艦隊の司令官將軍米准那にしても、印度より安全に支那に達するまでの間の冒險は、吾人の今日想像以上のものであつたことは疑ひない。もしこれを疑ふ人があるならば、私は此等の人々に對して、今日一切經の中に保存せられて居る法顯傳や、義淨三藏の南海寄歸内法傳や、大唐求法高僧傳などに見えて居る海洋交通の有樣を精
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