瘴・した。

 星しげき宵、桐の葉を截らうと思ひ、大いなる夜のさなかへ呂木は降りた。桐の葉はばさばさと足に落ち、なまぬるい葉肉の温覚が闇の呼吸を運んできた。微風にひろい葉がゆれた。呂木は静かに空を仰ぎ、きらめく星のしづくを吸ふた。何人か、垣根の陰に身を寄せて彼を窺ふものがあつた。暫くして静かに離れ、暗闇の奥へ立ち去つた。呂木は再び星を仰ぎ、仰ぎつつ部屋へ戻つた。
 虚しい部屋のなかに、何事か決意を頷く人がゐた。いぶかしげな乱れた思案が、ぼやけた部屋の明るみを燻《いぶ》るやうに湧き漂ひ、うなだれた呂木の心を無限の遠さへ連れていつた。呂木はその夜、壁に長々としるされた自分の影に、余り明瞭な他人を知つた。時のうつ記号のやうな跫音《あしおと》をきき、無気力な放心におし流されて影と対座し、やがて、長い歎息をもらして眠つた。

 呂木は転々として職を変へ、また、流れ歩いた。そして、漁業会社の舟乗りになつたとき、三十七になつてゐた。
 魚臭のむせつける港で、そのころ薄幸な女と知つた。もちろん酔余のことで、とある宿酔の朝、あとかたもなく忘れつくして別れることはなんでもなかつた。のみならず、女と酒をくむ
前へ 次へ
全9ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング