A静かな驚きと肯定を感じた。また神様を憎むやうに妻を憎む悲しい怒りが、呂木の心に濡れながら燃えつづいてゐた。
 呂木の貯へはなくなつた。呂木は中食にも足りない仕事に精を出した。女も働かねばならなかつた。女の方が先に疲れた。否、呂木の疲れがさきだつた。けれど、呂木の茫漠とした長い疲れは、窓のない灰色の建物に似て、内に満ちた虚しい風を吐き棄てる力もなかつたのだ。忠実な妻は愚直な愛で呂木の疲れを反映した。そして、呂木よりも強く疲れてしまつた。二人は別れ、忽ちのうちに忘れあつた。友達から出来るかぎりの金を借りて知らない土地へ呂木は去つた。
 見知らぬ土地に、心の果ては併しなかつた。柔らかな風が吹いてゐた。無の稀薄さに撒きちらされた心さへ野獣の興奮で白日を歓喜し、熱狂に疲れて、呂木は自分の影を愛した。音の死滅した夜更けの駅路で、ふやけた電燈の下へ左手をかざし、長いあひだ呂木はその手を眺めてゐた。そして、やつれた手を貪るやうに嗅ぎ嗅ぎして、そのあくどい人間臭に無心な悦びを覚えてゐた。呂木は酒に溺れた。そして、舟酔ひに似た――眩暈の中へ無限の転落を感じた時に幸福だと思つた。彼は酔ひ、そして心愉しげに
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