A長い溜息を洩らした。
その黄昏、最後の会社を後にした呂木は、郊外の下宿まで歩いて帰らうと思つた。道はもう闇の底に沈んだころ、途中からひそひそと霙《みぞれ》が降りだした。外套の襟をたて、ときどき暗い雪空を振仰ぐと、街燈のまわりだけいつさんに落ちてくる花粉が見えた。呂木はその日風邪をひいて厳しい悪寒に悩まされてゐた。会社の薬箱からアスピリン錠剤を取り出してもらひ、一息に三錠ものんだのだが、そのために、午《ひる》過ぎてひどいだるさを感じた。夕暮れ、社長室へ呼び込まれて馘首の話をきいてゐるとき、呂木は自分の体臭から夥しいアスピリンの悪臭を嗅ぎ出した。退屈してぼんやり見おろした薄明の街で、丁度暮方の灯が朦朧と光りはぢめたのだ。黄昏が語る安らかな言葉のやうに、それは華麗な静かな靄で呂木の心をおしつつみ、遥かな放心に泌《し》みてきた。ほど経て、一滴のしづくのやうな悲しさを一つの場所に感じてゐた。そして、冷え冷えと漾《ただよ》ふものが一条《ひとすじ》ばかりゆるやかに身体をぬうて流れていつた。
みちみち、彼は明日、速い急行に乗つて、光と海のある南方へ旅に出やうと考へた。
春が来て、呂木は沢山の
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