Pierre Philosophale
坂口安吾

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)併《しか》し

〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)〔Pie'rre Philosophale〕
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
http://aozora.gr.jp/accent_separation.html
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 小心で、そして実直に働いて来た呂木が、急に彼の人生でぐずりはぢめたのは三十に近い頃であつた。少年のころ見覚えのある景色で、もう長いこと思ひ出さずにゐたのだが、一つの坦々とした平野を夜更けの壁にひろびろと眺めた。古い絵本と静かな物語を思ひ出した。その頃から、働くのが厭だといふのではないが、――いはば、何かしら、そして何かがつまらないと思つたりした。彼はときどき五分ばかり目を瞑つて、そして何も考へてゐなかつた。こうして、併《しか》し自分ではそんなことに気がつかずに、又数年間自分としては実直に働いた。
 彼はくびをきられた。気がつかないうちに、ひどく疲れてしまつた自分を、その時やうやく、そして記憶のやうな遠さの中に発見し、長い溜息を洩らした。
 その黄昏、最後の会社を後にした呂木は、郊外の下宿まで歩いて帰らうと思つた。道はもう闇の底に沈んだころ、途中からひそひそと霙《みぞれ》が降りだした。外套の襟をたて、ときどき暗い雪空を振仰ぐと、街燈のまわりだけいつさんに落ちてくる花粉が見えた。呂木はその日風邪をひいて厳しい悪寒に悩まされてゐた。会社の薬箱からアスピリン錠剤を取り出してもらひ、一息に三錠ものんだのだが、そのために、午《ひる》過ぎてひどいだるさを感じた。夕暮れ、社長室へ呼び込まれて馘首の話をきいてゐるとき、呂木は自分の体臭から夥しいアスピリンの悪臭を嗅ぎ出した。退屈してぼんやり見おろした薄明の街で、丁度暮方の灯が朦朧と光りはぢめたのだ。黄昏が語る安らかな言葉のやうに、それは華麗な静かな靄で呂木の心をおしつつみ、遥かな放心に泌《し》みてきた。ほど経て、一滴のしづくのやうな悲しさを一つの場所に感じてゐた。そして、冷え冷えと漾《ただよ》ふものが一条《ひとすじ》ばかりゆるやかに身体をぬうて流れていつた。
 みちみち、彼は明日、速い急行に乗つて、光と海のある南方へ旅に出やうと考へた。

 春が来て、呂木は沢山の女友達にとりまかれてゐる自分を見出した。彼はどの一人も好きな気がした。間もなく、その中では一きわ美貌な、悧巧でおしやれな一人へ特に惹かれる心をみた。その女も呂木を憎んでゐなかつた。呂木は激しい恋情に溺れやうとするとき、のつぴきならぬ退屈を感じ、身も心も投げ出したい落胆を知つた。彼はいそいで出奔して、まるで身体が旅愁のやうな、狂暴な感傷にふるへながら、軌道を忘れた夥しい決意を噛みつづけて彷徨ひ歩いた。三週間。春風と、うらぶれた耀やきのなかに山や海や、潮音のざわめきをもつ見知らぬ街が止み難い癇癪を植ゑて流れ去つた。
 呂木は不思議な陽気さで帰京すると、醜いそして世帯持ちの良ささうな二十六の娘へ、唄ふやうな気楽さで結婚を申込んだ。
 呂木は心に泣き、呂木は苛酷な神様を愛しはぢめた。女中の質素と従順をもつ素朴な妻は呂木を熱心に愛した。呂木は女を愛したいと思はなかつた。そして、自分の愛さないものが、愛すことのできないものが、最もいぢらしいのだと思つた。ちやうど、生きてゐることのやうに。
 とある平和な夜更け、妻が泣き出した。そして呂木も泣いてゐた。彼は神様を愛すやうに妻を愛してゐる自分を発見して、静かな驚きと肯定を感じた。また神様を憎むやうに妻を憎む悲しい怒りが、呂木の心に濡れながら燃えつづいてゐた。
 呂木の貯へはなくなつた。呂木は中食にも足りない仕事に精を出した。女も働かねばならなかつた。女の方が先に疲れた。否、呂木の疲れがさきだつた。けれど、呂木の茫漠とした長い疲れは、窓のない灰色の建物に似て、内に満ちた虚しい風を吐き棄てる力もなかつたのだ。忠実な妻は愚直な愛で呂木の疲れを反映した。そして、呂木よりも強く疲れてしまつた。二人は別れ、忽ちのうちに忘れあつた。友達から出来るかぎりの金を借りて知らない土地へ呂木は去つた。
 見知らぬ土地に、心の果ては併しなかつた。柔らかな風が吹いてゐた。無の稀薄さに撒きちらされた心さへ野獣の興奮で白日を歓喜し、熱狂に疲れて、呂木は自分の影を愛した。音の死滅した夜更けの駅路で、ふやけた電燈の下へ左手をかざし、長いあひだ呂木はその手を眺めてゐた。そして、やつれた手を貪るやうに嗅ぎ嗅ぎして、そのあくどい人間臭に無心な悦びを覚えてゐた。呂木は酒に溺れた。そして、舟酔ひに似た――眩暈の中へ無限の転落を感じた時に幸福だと思つた。彼は酔ひ、そして心愉しげに
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