瘴・した。
星しげき宵、桐の葉を截らうと思ひ、大いなる夜のさなかへ呂木は降りた。桐の葉はばさばさと足に落ち、なまぬるい葉肉の温覚が闇の呼吸を運んできた。微風にひろい葉がゆれた。呂木は静かに空を仰ぎ、きらめく星のしづくを吸ふた。何人か、垣根の陰に身を寄せて彼を窺ふものがあつた。暫くして静かに離れ、暗闇の奥へ立ち去つた。呂木は再び星を仰ぎ、仰ぎつつ部屋へ戻つた。
虚しい部屋のなかに、何事か決意を頷く人がゐた。いぶかしげな乱れた思案が、ぼやけた部屋の明るみを燻《いぶ》るやうに湧き漂ひ、うなだれた呂木の心を無限の遠さへ連れていつた。呂木はその夜、壁に長々としるされた自分の影に、余り明瞭な他人を知つた。時のうつ記号のやうな跫音《あしおと》をきき、無気力な放心におし流されて影と対座し、やがて、長い歎息をもらして眠つた。
呂木は転々として職を変へ、また、流れ歩いた。そして、漁業会社の舟乗りになつたとき、三十七になつてゐた。
魚臭のむせつける港で、そのころ薄幸な女と知つた。もちろん酔余のことで、とある宿酔の朝、あとかたもなく忘れつくして別れることはなんでもなかつた。のみならず、女と酒をくむ時でさへ、あとかたもなく忘れつくしてゐることができた。しかし二人は結婚してみてもよかつたし、いつしよに死んでみてもよかつた。そして二人はだらしなく、さういふ話にふざけあつた。真実に飢ゑて徒らに真実の好きな二人。そして、決して実体のない真実を幻の中に愛撫する二人は、もはや現実にあらゆる建設の気力を喪失して、意味もなく真実を怖れた。そして、詐《いつわ》りに耽つた。詐りの感傷に溺れるあまり、無役な熱狂へまで、些少な建設へまで駆り立てられる懶うさを怖れ、詐りに詐りをかけて草臥《くたび》れ果てた。蒼ざめた重い仮面が秋風のやうに落漠として、二人の情慾を高尚にした。二人は自らの秋風に恋慕した。秋風のなかで醜いものを宝石とする甘い魔法にもう癇癪も起さなかつた。反省を苦笑に紛らす力もなく、ひたすらに全ての屈託と現実をなつかしみ、苦笑さへ浮ばぬための意味ありげな顔付をいとほしんで、水流を視凝めるやうな寂しさを心にともし、いだきあつた。
もはや我々の生活では、最も人工的なものが本能であり得ることを、呂木は絶望と共に知つた。
女は悧巧でさへなかつた。あらゆる欠点の魅力をのぞけば塵埃《ごみ》のやうな女だつた。二人は、行き交ふ万人の男女に心を惹かれてきたよりも、もつと稀薄な恋心で、いはば獣の情慾で露骨に結び合つたのだ。それでも呂木は、死のためになら別なふうに、たとへば宝石を愛すやうに愛せることを確信した。存在が絶滅し去ることの凄艶な美しさ――その、生きるものの考へあたはぬ白熱の美を、呂木は最も壮大な、そして静かな形のなかに、不思議に其れを実感のなかで夢見たやうな心持がした。
ある孤独な日、あらゆる悪罵に疲れてのち、宝石の形に女を見た。そして、濡れた舷側から眺められた晴れた日の透きとほる空を思ひ、ときのまの甘さに飽いて、つめたい欠伸《あくび》をまた吐き棄てた。
働くことも不満ではなかつた。女と別れることも悲しくはなかつた。そして、死ぬことにも不満はなかつた。
さういふ幾日がすぎて、呂木は女に別れ、別の漁場へ去つた。
たまたま古い絵葉書のやうになにがしのことを思ひ出した日、呂木は不思議に歴々と、放浪のころ、旅籠《はたご》の庭で桐の葉を截つた宵を想ひ泛べた。何人か垣根の蔭に佇んで呂木を窺ふものがゐた。静かに離れ、いつてしまつた。――そして呂木は、激しい瞑想に耽る人、決して呂木に物言はぬ冷い男、自分の影をまた知つた。歎息よりもまだ寒い永遠の他人を呂木は視凝めた。
むかしアラビヤのアルシミストは営々として「哲学の石」を無駄に探した。哲学の石は全ての石を黄金に化すといふのであつた。
呂木は思つた。ちやうど自分は、愚かしい智学の石を自分の中に懐きつゞけた宿命の人ではなかつたのか、と。自分の無役な一生は、畢竟石を金とするために、そして寧ろ、石を金としたために喘ぎとほしてきたのではなかつたか、だがそれは、所詮苦笑にも価ひせず、泪にも価ひしないに違ひなかつた。
それからの呂木はすてばちを愛した。破壊のみ唯一の完成であることを考へられてならなかつた。そのころ酒が味と喜びを失つてゐたが、呂木は無理に酒をのんだ。
港と季節が流れ、そして呂木は、それ程の時もたたぬうちにひどく疲れてしまつた自分を見出して、もはや白日を歓喜する熱狂にさへ乗りきれない自分をあはれんでゐた。落胆それ自身が老いてしまつた自分を見た。哲学の石は育てることも捨てることもできない。
そして彼は広大無辺な落胆のなかに、無味乾操な歎きを知つた。
底本:「坂口安吾全集 01」筑摩書房
1999(平
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