と言はれるのも聊《いささ》か心外であるために、先づ、何の躊躇《ため》らう所もなく此の厄介な「芸術」の二文字を語彙の中から抹殺して(アア、清々した!)、悲劇も喜劇も道化も、なべて一様に芝居と見做し、之を創る「精神」にのみ観点を置き、あわせて、之を享受せらるるところの、清浄にして白紙の如く、普《あまね》く寛大な読者の「精神」にのみ呼びかけやうとするものである。
 次に又、この一文に於て、私は、決して問題を劇のみに限るものではなく、文学全般にわたつての道化に就て語りたいために、(そして私は、言葉の厳密な定義を知らないので、暫く私流に言はして頂くためにも――)、仮りに、悲劇、喜劇、道化に各次のやうな内容を与へたいと思ふ。A、悲劇とは大方の真面目な文学、B、喜劇とは寓意や涙の裏打によつて、その思ひありげな裏側によつて人を打つところの笑劇、小説、C、道化とは乱痴気騒ぎに終始するところの文学。
 と言つて、私は、A・Bのヂャンルに相当する文学を軽視するといふのでは無論ない。第一、文学を斯様な風に類別するといふことからして好ましくないことであり、全ては同一の精神から出発するものには違ひあるまいけれど――そして、それだから私は、道化の軽視される当節に於て(敢て当今のみならず、全ての時代に道化は不遇であつたけれども――)道化も亦、悲劇喜劇と同様に高い精神から生み出されるものであつて、その外形のいい加減に見える程、トンチンカンな精神から創られるものでないことを言ひ張りたいのである。無論道化にもくだらない[#「くだらない」に傍点]道化もあるけれども、それは丁度、くだらない[#「くだらない」に傍点]悲劇喜劇の多いことと同じ程度の責任を持つに止まる。
 そこで、私が最初に言ひたいことは、特に日本の古典には、Cに該当する勝れた滑稽文学が存外多く残されてゐる、このことである。私は古典に通じてはゐないので、私の目に触れた外にも幾多の滑稽文学が有ることとは思ふが、日頃私の愛読する数種を挙げても、「狂言」、西鶴(好色一代男、胸算用等)、「浮世風呂」、「浮世床」、「八笑人」、「膝栗毛」、平賀源内、京伝、黄表紙、落語等の或る種のもの等。
 一体に、わが国の古典文学には、文学本来の面目として現実を有りの儘に写実することを忌む風があつた。底に一種の象徴が理窟なしに働いてゐて、ある角度を通して、写実以上に現実を高
前へ 次へ
全12ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング