ので、ホッと大きな息を漏して何もかも忘れたやうな気持になつたら、実に大きな青い空が言ひ様もなく静かなものに見えたのであつた。そこで僕が長々と欠伸をしてヒョイと其の時気が付いたら、すぐ目の下の大きな松の木の根つこに、その松の木の洞穴の中へ頭をゴシゴシ押し隠してまんまるく小さく縮こまつた霓博士がブルブル顫えてゐたのだつた。それを見ると突然僕は悲しくなつて、恋に悩む人間といふものは、そして又わけの分らない苦しみや歎きや怖れや憧れを持つ人間といふものは本当に気の毒なものであると思ひやられ、なんだかメキメキ眼蓋が濡れて熱く重たくなつてきたので堪らなくなつてしまひ、
「センセーイ! もう大丈夫ですよ! 奥さんはもう行つちやいました。それから先生、さつきの事は勘忍して下さい。あれはつひ、ハヅミがついてドカドカやつちやつたんですけど、シンから先生が憎らしかつたわけではないのですから――」
 博士は突然首を擡げて振り返ると忽ち闘志満々としてボクシングの型に構え、ブルン! 鋭い真空の一文字を引いた途端に素早く僕の胸倉に絡みついたのだが、渾身の力を奮ひ集めて鼻をグリグリ捻りあげるとヤッ! 僕を山の頂上へ捩ぢ
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