経衰弱の角度から僕の憔悴した蒼白い顔を観察しはぢめたものらしい――暫くして、絞めつけられた鶏のやうな呻き声をあげた。
「プープープー、それは甚だ宜しくなアい!」
 霓博士は暗澹とした顔をヂッと僕に向け合せて、殆んど同情のあまり今にも涙の溢れ出るやうな親密な表情をした。そして若し、博士の言葉がものの十秒も遅れて発音されたなら、僕は博士が発狂したものと感違ひして、恐怖のあまり突然窓を蹴破つて一目散に逃走してゐたに相違なかつた。
「ワシも長いこと神経衰弱に悩んどるウよ」
「ア、ア。そ、そうでしたか――」
「キミは睡眠がとれるかアね?」
「駄目です! ああ、駄目々々! 実に悲惨なものです。毎夜々々ふやけた白い夜ばかりなんですが! ああ!」
「ワ、ワシも、ワシも、ワシも悲惨――う、ぶるぶるぶるう――ワ、ワシもワシも白い夜ぢやアよ!」
 博士は殆んど悲しみのあまり今にも悶絶するところであつた。そして劇しく咳上げはぢめ胸を叩いて※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]《もが》き苦しむものだから僕が慌てて介抱したら、博士は胸に痙攣を起して見ぐるしく地団太踏み乍らも、眼玉の動きや手の振り加減によつて其れとなく僕に感謝を表はすために、尚忙しく廻転しはぢめたのであつた。――斯うして僕と霓博士は、忽ち友情の頂点に達したもののやうであつた。僕達は各自の処分に就て腹蔵ない意見を披瀝し合つたり、憂はしく嘆き合つたり慰め合つたりした。そして僕が僕の身辺に垂れこめてゐる怪しげな妖気に就てつぶさに辛酸の由来を語ると、博士は又、自分は最近讃嘆すべき麗人と結婚したのであるが、その麗人はまだ至つて少女であるために自分を激しく愛撫することを知るのみで神経衰弱に対しての理解に乏しいから、自分の神経衰弱は結局、永遠に癒る時はあるまいと語り、悩ましげに溜息を吐いてゐたが、又突然深い満足の微笑をニタリニタリと合点々々頷き乍ら洩したのであつた。そして、僕は其の時ハッ! と衷心より博士は気の毒な人であると思ひ、この人を倖せにするためになら此の上さらに僕の神経衰弱を深めることも厭はないであらうと思ひ当つて、ヂッと一本の指を噛み乍ら太い溜息を洩したりして真剣に知恵を運《めぐ》らし初めたのであつた。そして――
 あの、森の酒場を突然彷彿と思ひ出したのであつた――
 広漠として殆んど涯も知れないその森の入口に一軒の酒場が立てられてゐた。森の入口はと言へば此は又広茫としたなだらかな草原で、見渡したところ八方に人々の棲む何の気配もないのだが、大いなる落日が森の奥へ消え落ちて東の平野から広い夜が這ひ上つてくると、急にフワフワと何処から現れるものともつかず実に可笑しな奴ばかりが森の酒場へ集つてくるのだ。煙草をふかし乍ら勿体ぶつて考へてばかりゐる三文詩人がゐるかと思ふと、見てゐたらいきなり彼の二つの耳から白くモクモクと煙を吹き出し嵐のやうな劇しい思索に耽りはぢめたのであつた! 凡そ常連の一人として一列一体に異体《えたい》の知れた奴はない。僕も昔は此の酒場の古い常連であつたのだが、神経衰弱に悩まされて以来《このかた》は、それも畢竟此等のてあひ[#「てあひ」に傍点]の醸し出す酒場の妖気に当てられた所為でもあらうかと思ひ、堅く禁酒を声明して森に足を向けなくなつた。――思へば迂闊にも忘れてゐたが、全て物事には珍重すべき「逆」といふものがあるのだ。ことに神変不可思議な神経衰弱の如き端倪すべからざる代物《しろもの》にあつては、逆こそ唯一の手段として何を措いても試みるべき性質のものではないか――
 森の酒場へ! さうだ! 森の酒場へ!
 僕は忽ち興奮して殆んど涙を流さんばかりに感激し乍ら騒しく博士の手を握り、僕の頭に揺影した新鮮な映像に就て説明した。そして僕達は忽ち已に病魔を征服したもののやうに有頂天となつてしまひ、あの広茫とした森の酒場へ! 唱歌を高らかに歌ひながら行進したのであつた。――その日から、昼は昼、夜は夜で、明け暮れ博士は森の酒場へ入り浸り終日デレデレと酔ひ痴れずには夜の明けない尊きバッカスの下僕となつたのであつた。
 ――おお、愛しい森の娘クララよ!
 それがこの「森の酒場」の陽気な行事である通りに、博士も亦大いなる壺に水を満し其れにしたたかキュムメルを加へて妙なる青白き液体となし、酒場の娘クララの青春を讃へ乍ら我が魂を呑むが如くに呑みほす途端に、位置に多少の錯覧を起して何のためらう所もなくザッと全身に浴びて了ふのであつた。「う、ぶるぶるぶるう……」と呻き乍ら忽ち博士は博士独特の方法によつて逆立ちし背や腹へ廻つた液体を排出しやうとするのだが、それらは已に全く深く浸みついて動きがとれないものだからワッ! と叫んで七転八倒の活躍をしはぢめ、挙句の果に力も尽きてグッタリ其処らへ倒れたまま劇しく痙攣を
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