あつて僕の憎まれる筋はない。況んや博士を誘惑し平和なる団欒を破壊するところの蒼白き妖精と呼ばるるに至つては――思ひ当る節も無いことは無い、が、公明正大な判断によれば、全ては僕の類ひ稀な「良き意志」から割り出された結果であつて、たまたま過つて毒薬を調合した医者の立場に過ぎないのだ。僕の悲惨な運命を嘆くために、事のいきさつをつぶさに公開しやう。
僕はその頃獰猛な不眠症を伴ふところの甚だ悪性な神経衰弱に悩まされてゐた。あまつさへ様々な「不幸」が、まるで僕一人を彼等の犠牲者として目星をつけたかのやうに群をなして押寄せてきた。自動車に跳ね飛ばされて頭を石畳に打ちつけるとか、河を跳び越す途端に確かに河幅が一米ばかりグーと延びて僕を水中へ逆立ちさせてしまふとか……凡そ意地悪るな「不幸」が丁度一種の妖気のやうに靄をなして僕の身辺を漂ひ、僕の隙を窺ひ乍ら得意げに僕の鼻先で踊りを踊つたり欠伸をしたりしてゐるのが光線の具合でチャンと見えて了ふのだ。僕は彼等に乗ずる隙を見せないために堅く一室に閉ぢ籠り、無論学校も休んで、その頃丁度二ヶ月ばかりといふものは頑固に外出を拒んでゐた。
ところが僕の学校では――僕のクラスは十名にも足らない僅かな人数であつたから、恐らくその所為であつたらうと思ふのだが、勤勉な秀才を数の中へ入れ漏してゐたのだ。一列一体に頑として学校へ出席することを憎む奴ばかりが揃つてゐた。そこで一日、学監はクラスの委員に出頭を命じて厳しく叱責を加へ「さう一列一体に休んでは、先生方が月給を受取る時に大変恥ぢた顔付をしてしまふ。斯様な精神上の犯罪に対しては、教養ある大学生の身分として最も敏感でなければならぬ筈である。一講座に一人づつ、今後漏れなく出席するやうに協定せよ」と厳重に申渡した。僕達は早速緊急クラス会議を開催し、各自の分担を籤引《くじびき》によつて定めることとした。結局僕の責任に決定をみた講座は霓博士の「ギリシャ哲学史」であつた。
僕が不幸な病気のために悶々として悩んでゐたら、ある麗かな午《ひる》過ぎのこと、級長が蒼白い怖い顔付をして堅く腕を組み乍ら僕の部屋へ這入つて来た。彼は長いこと黙つてヂッと僕を睨まへ、如何にも口惜しげに菓子ばかり噛み鳴らしてゐたが――
「悲憤慷慨のいたりであるぞ!」と急に劇しい嘆きをあげた。
「ダ、ダ、誰が暗殺されたんだア! 又又、ド、何処のお嬢さんが君をそんなにも失恋させて了つたのか!」
「君が最近出席しないために事務所はひどく憤慨してゐるぞ! 僕に代りを勤めろと催促してきかんから、僕は実に迷惑してゐる!」
「ウウウ、それは大いに同情するが、何分僕は斯んなにも煩悶してゐるのだから、もう暫く勘弁してくれ――」
「ソクラテスの故事を知らんか! はた又、広瀬中佐の美談を知らんとは言はさんぞ。国家のためには一命を犠牲にしたではないか。それ故銅像にもなつとる。尊公がクラスへ出んといふ法はない――」
「ムニャ/\/\/\」
といふわけで、高遠な哲学に疎い僕は常に論戦に破れるのであつた。翌日、僕は悲愴な決心を竪め、一命を賭して博士の講座へ出席した。それが若し共産主義の旗じるしでさへ無かつたなら、僕は円タクの運転手に僕の存在を知らしめるため、赤色の危険信号旗を頭上高らかに担つて歩いたに相違ない。
ガランとしてひどく取り澄ました教室にたつた一人で待つてゐたら、始業の鐘も鳴り終つて已にあたりもシンと静まり返つてから、突然けたたましい跫音《あしおと》が教室の扉へ向けて一目散に廊下を走つて来た。扉に殺到したかと思ふと急に忙しく把手をガチンと廻したので、誰か風みたいに飛び込んで来る奴があるのかと思つたらさうでもない、顔の半分すら教室の中へ現はさないうちに、忽ち扉を再び閉ぢて今来た廊下を全速力で戻りはぢめた。余程廊下を向ふの方まで戻つてから、「さうだ、教室の中に誰か居たやうだ――」と気付いたらしい、急に立ち止る跫音がしたと思ふと、今度は猫みたいに跫音を殺し乍ら忍び足で戻つてくる気配がした。間もなくソッと把手が廻つて、ビクビクした眼の玉が怖々と中を覗きはぢめたが、僕をハッキリ認めると怪訝な顔付をして考へ乍ら、少しづつ身体を扉の内側へ擦り入れてゐるうちに、とうとう全身教室の中へ立ち現れてしまつた。言ふまでもなく霓博士である。博士は訝しげに思案し乍ら、首を振り振りどうやら教壇の椅子へまで辿りつくことができて其処へ腰を下したが、僕を様々な角度から頻りに観察して憂はしげに息を吐いた。それから、次第に意識を取り戻したと思ふうちに、今度は莫迦に偉さうに突然胸を張つて僕をウン! と睨みつけた。
「なに故に永い間休みおつたアか!」
「実は途方もない神経衰弱に苦しめられて煩悶してゐたものですから、つひ……」
僕が苦しげに溜息をついたら、博士は改めて神
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