起すのであつた。クララは博士を抱き上げて濡れた顔を親切に拭いてやり、
「博士はもう今日は一滴も呑んではいけませんの――ね、約束しませうよ。博士は三文詩人や落第生みたいな手のつけられない呑んだくれぢやありませんわね……」
「ワ、ワシは手のつけられない呑んだくれぢやアよ」
 博士は突然クララの膝から立ち上つて走り出し、アブサンの壜を抱えていきなりポン! と慌ただしげに栓を抜こうとするのであつた。
「およしなさい! それこそ動けなくなつてしまふわ。奥さんに叱られますよ!」
「ウー、違わあい! それは、嘘ぢやあよ」
 博士はてれて恥しげに縮こまり乍らモヂモヂと言訳を呟き――そしてチラリと僕に流眄《ながしめ》を浴せて殆んど僕の死滅をも祈るかのやうな怖しい憎しみを強調してみせるのであつた。斯うして博士は僕を激しく憎み初めたのだ。

[#7字下げ]3[#「3」は中見出し]

 森の酒場では、夜更けから夜明けへ移る不思議に間の抜けた懶い瞬間に、(それが毎日の習慣であつたが)一つのクライマックスが――あらゆる悦び、あらゆる悲しみ、あらゆる歎き、あらゆる苦しみの最大頂天《バラキシミテ》であるところの旋風のやうな狂乱が、湧き起るのであつた。怪しげなてあひ[#「てあひ」に傍点]によつて嵐の如く吹きあげられる一日の酔気が、恰も朦朧とした靄となつて部屋の四隅に彷徨ひ流れ、莫大な面積をもつ変な爛れがチクチクと酔ひ痴れた頭を刺す刻限になると、誰といふこともない、突然誰か先づ一人が立ち上るのだ。そして――
「おお、星の星よ、樹の樹、空の空、娘の中の娘であるクララよ! 拙者の魂はお前の可愛らしい足もとへ捧げられるために、いかばかり此の一日を清らかに用意されたことであらうか!……」
 彼は出鱈目な言葉を敬々《うやうや》しく呟き終ると、やにわに彼の心臓へ手を差し入れて魂を掴み出さうとするのである。すると――魂がなくなつてゐる! 彼は慌てて胃嚢《いぶくろ》を探しはじめるのであつたが、次第に苛立たしげに狼狽を深めて自分の耳を引つ張つたり舌を出して撮んだりポケットを探したり靴を脱ぐとガタガタ揺さぶつたりしてゐるうちに、皆目見当を見失つてワア――落胆して口をパクパク言はせてゐるが、遂ひに猛然として気狂ひのやうに部屋一面を走り初め、空気の中から彼の魂を握《つか》み出さうとして激しく虚空を掴むのであつた。
「お、おれの魂がなくなつたあ! お、俺の魂を探して呉れえ! わあわあ悲しい……」
「お、俺の魂を貸してやるから心配するな!」
 見兼ねた奴が突然目の色を変へて立ち上ると、サッと心臓へ手を差し入れるが其処にも無い――彼は慌てふためいてポケットの裏を返したり舌を撮んだりしてゐるうちに、これもワアッ! と逆上して空気に躍りかかるのであつた。
「お、俺の魂がなくなつたあ!」
「心配するな! お、俺のを貸してやる!」
「お、俺の魂を貸してやる!」
「お、俺のを……」
「お、俺のを……」
 斯うして部屋中の酔つ払ひが、一様に卓子を倒し椅子を踏みつけ右往左往湧き上つて、目の色を光らせ乍ら空気を追駈け廻るのであつた。その時まで止め損つてフラフラしてゐた酒場の親父もワアッ! と気附いて忽ち上衣をかなぐり捨て――
「シ、心配するな! オ、俺の魂を貸してやる!……」
「アラ変だわよ、お父さんの魂なんて……」
「バ、バカぬかせ!」
 ヤッ! と心臓を探したところが、これも亦見当らない――慌ててズボンのポケットを掻き廻したり靴を振つたりしてゐるうちに、彼も亦皆目見当を見失つてワアッ! と逆上しながら空気の中へ躍り込んでしまふのだ。最後に一人取り残されたバアテンダアが――
「ワアワアワア! マ待つて呉れえ! 家が潰れてしまふよう! 大変だあ、大変だあ! タ、魂を拵へるから、マ、待つて呉れえ、タ、頼むからよう!……」
 と泣き喚きながら、やにわにカクテル・シェーカアの中へ自分の身体をスッポリもぐすと、これにコニャックとジンを注ぎ込みシャルトルーズに色づけをしてクルクルくるくると廻転しはぢめるのだ。タッタッタッとグラスを並べて身体諸共躍り込み、
「デ、デ、デキタ!――」
「ワッ!」
 一群の酔つ払ひは嵐のやうに殺到して、グイグイ呑みほしてしまふと、グッタリ其の場へ悶絶して動かなくなつてしまふのだ。そしてその頃ホノボノと森の梢に夜が白みかかつてくるのであつた。――霓博士が此処の常連に加はつて以来、この廻転の速力が一段と目まぐるしい物になつたと言はれてゐる。

 ところが或日のことであつた。その夜は僕が先づ真つ先に立ち上つて、クララに魂を捧げやうとしたのであつた。
「おお、星の星、樹の樹、空の空!」
「お止しなさい! そして貴方なんか森の奥底へ消えてしまふといいんだわ。あたしは貴方のやうなネヂけた人の魂なんか欲
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