るからエエのだアよ! 断じて落第に決つとるウよ! 生涯お前は学生ぢやアよ!」
「そ、それあ、実に横暴だ!」
「こいつ――」
突然ブルン! と空気が破けて頭の上へ卓子が飛んできた! 右から椅子が落ちてきた! 左から靴だ! 本だ! バケツだ! 電燈が微塵にわれた! 黒板が――僕としては幸福なめぐりあわせ[#「めぐりあわせ」に傍点]であつたのだが黒板は幾らか重すぎるために、博士は遂ひに自ら黒板の下敷きとなり泡を激しく吹き乍らジタバタして、「タ、助けないと、アンゴウは、ラ、ラ、ラ、落々々々……ぢやアよ!」と唸つてゐるドサクサに僕は窓を蹴破つて一目散に逃げ延びるのであつた。――およそ此の如き有様が毎日の習慣であつたのだ。この不可思議な憎悪には秘められた謎が有らうといふものである。それも大体は目星がついてゐたのだが、つまり博士は、最近結婚したばかりであつたのだ。まだ半年とたちはしない近頃の話で、それも当年二十才の素敵な麗人だといふ事だから、毎晩おそく酔ひ痴れて帰る度に夫人にギュウギュウやつつけられるものらしい……
諸君は、モルグ街の殺人事件を御存知であらうか? あれも星のキラキラとした怖いやうな夜更けであつたが、人通りの全く杜絶えたモルグ街の一劃の、まだ窓に燈火《あかり》の射してゐる階上の一室から突然けたたましい悲鳴が湧き起つたのだ。暫くしてシンと音の落ちた其の部屋から今度は何国の言葉とも知れない変な絶叫が聴きとれたが、そのまま再びひつそりとして全く夜の静寂に還元してしまつた。一匹の猩々《しようじよう》が獰猛な力をもつて二人の婦人を惨殺してしまつたのだ。ところが――此の残酷な顛末を、瓦斯《ガス》燈の柱に攀ぢ登りプラタナの繁みに隠れて逐一窓越しに見届けてしまつた胡散な男があつたのだ。其奴が此の猩々の所有主で――そして又、そんなら其れが僕であつても全く差し支へは無かつたのだ。霓博士の邸宅に於ては、あらゆる意味に於てモルグ街の殺人事件が再演されてゐたからである。「国籍不明の絶叫」だとか「劇しく家具の散乱する物音」だとか「肉体と物体との相反撥し合ふ物音」――そして其れは明らかに一人が一人をやつつけてゐる物音、より正確なニュアンスを言へば、一人が一人にやつつけられてゐる物音、であつたのだ。――それにしても、何といふ長たらしい、収まりのない殺人事件であらうか! 流石に僕も全く退屈して、
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