が、いよいよ仕方のない時はさういふ仕事をしていいと考へてゐた。然し金に困らない母の口から同じ言葉をきかうとは! それは我慢がならないし、まさかにそれは有り得ないと彼は思つた。屈託した毎日をくらす母だから、色々気まぐれな思ひもあつて、さういふ思ひの無意味なひとつにすぎないだらうと考へたのだ。有耶無耶《うやむや》な事迄にお茶濁して、その日はそれですんだのだつた。
 翌る日の夕方だつた。散歩にでようとして門をでると、折から車をひいてくる牛乳配達に行き会つた。彼は変な親しさを見せて笑ひかけてくるのであつた。昨日のことは忘れてゐたので、安川は気にもとめずに顔をそらして歩きだした。とつぜん牛乳配達は追ひつくやうに急ぎながら声をかけた。君はこの家の書生かね居候かね、と。安川はうんと答へた。君はうちの店に働くのだらうと男は言つた。いや、ほかの仕事があつたから、君の店はよすことにしたと安川は答へた。そして二人は別れたのだつた。
 安川は怒りと悲しみにむしろ茫然としたのであつた。昨日話をもちだす前に、母はすでに牛乳屋と殆んど確定的な契約を結んでゐたに相違なかつた。しかも何気ないあの空々しい話ぶりよ! しか
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