がひびくのである。その跫音《あしおと》のうるささが、松江に一生忘れることのできないやうな怖い思ひを感じさせた。
遠山は不在だつた。はりつめた気がいちじに弛んだ思ひがした。それでよかつたと自分に言つた。とにかく此処まで来たことで気持は充分済んでゐると思ふのだつた。然し手紙を書き残さねばならないやうな心残りが、ぼんやり頭にからみついて離れなかつた。松江は廊下の窓に凭れて、外の景色を眺めてゐた。そこへ遠山が帰つてきた。
松江は遠山に会つてみると、その時までとはまるで違つた自分自身を見出した。彼女は泣きもしなかつた。一部始終を語りながら、ひとごとのやうに時々苦笑をもらすのだつた。けれども時々薄い涙が瞳を掩ふた。
「その女なら知つてますよ」と遠山は言つた。「その酒場なら僕も一緒に時々飲みに行きましたから」
そして彼はさとすやうに語りはじめた。
「それは御二人の夫婦生活を乱すやうな重大性をもつものではありません。あの女は安川の恋愛の対象でなく、性欲の対象ですらないでせう。第一これが恋人だつたら遮二無二隠す才覚に耽るでせうから、公然とうちへ引取るといふことが、つまりそれだけでしかないことを明瞭
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