が、いよいよ仕方のない時はさういふ仕事をしていいと考へてゐた。然し金に困らない母の口から同じ言葉をきかうとは! それは我慢がならないし、まさかにそれは有り得ないと彼は思つた。屈託した毎日をくらす母だから、色々気まぐれな思ひもあつて、さういふ思ひの無意味なひとつにすぎないだらうと考へたのだ。有耶無耶《うやむや》な事迄にお茶濁して、その日はそれですんだのだつた。
翌る日の夕方だつた。散歩にでようとして門をでると、折から車をひいてくる牛乳配達に行き会つた。彼は変な親しさを見せて笑ひかけてくるのであつた。昨日のことは忘れてゐたので、安川は気にもとめずに顔をそらして歩きだした。とつぜん牛乳配達は追ひつくやうに急ぎながら声をかけた。君はこの家の書生かね居候かね、と。安川はうんと答へた。君はうちの店に働くのだらうと男は言つた。いや、ほかの仕事があつたから、君の店はよすことにしたと安川は答へた。そして二人は別れたのだつた。
安川は怒りと悲しみにむしろ茫然としたのであつた。昨日話をもちだす前に、母はすでに牛乳屋と殆んど確定的な契約を結んでゐたに相違なかつた。しかも何気ないあの空々しい話ぶりよ! しかも更に妖怪的な凄味のあるのは、安川が有耶無耶のうちにおたきの意志をうち消しててんで相手にならないのに、強ひてすすめもしなければ反対もせず同意もせず、あへて悲しみも見せなければ絶望もせぬあの白々しい無表情な顔付だつた。さりげないあの顔付の背後には牛乳屋との思ひもうけぬ契約が秘められてゐたと分つたいま、更に無限の思ひもうけぬ実力を予想せずにはゐられなかつた。それは古い物語の妖婆の業を思はせた。それと母との脈絡を空しく探しあぐねるとき、ただ単に母なる名前に打ちひしがれた五才の幼児であるかのやうな、無残に非力な絶望を思ひあてずにゐられなかつた。
安川は母への復讐を考へた。これみよがしに牛乳屋との契約を破つてみせても、あの白々しい無表情の顔の前では、単に敗北を強めることにすぎないだらう。安川の怒りと憎しみは大きすぎたし、これを「おたき」と言ひきつては当らぬうらみがあるのだが、「母」に甘える幼児のやうな理智を越えた我儘もあつた。その夜彼は家宝のひとつの大雅の軸をもち出して五百円の金に代へた。これみよがしにさうすることが、むしろ復讐であるよりも、復讐の名前に隠れて悔いるつらさを免れようとするためだ
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