竄ネいのだ。さうかといつてベエトオベンのクロイツェルソナタのやうな肉体や血のひしめいた懊悩を感じさせるものとも違ふ。いはば単に魂魄とか霊魂とでもいふものがどん底へ押し込められて、光もとどかない暗闇の奥で呻きだした。そんなものを感じさせるだけなんだよ。その曲を聴いたらピアノが欲しくなつたのだ」
「それを弾いてきかせないか」と長平が言つた。
「弾けないのだ。もともとピアノが弾けないのだよ。そのうちに習ひはじめるつもりだが、その曲を自分で弾きたい欲望もないのだ。きいてくれ。俺は近頃酒をのむのだ。一回に四合瓶一本づつ。毎日なんだ。夜が更ける、二時三時、すると俺は四合瓶をとりだして静かにゆつくり飲みだすのだ。決して人とは飲みたくない。この部屋の外でも飲みたくないのだ。この古ぼけた変哲もない俺の部屋が生き生きと蘇み返つてくるぢやないか。この部屋の中へ閉ぢこもつて為すこともなく失つてきた多くの時間が、然し決して無駄ではなく、それらがみんな蘇生して現実の俺の位置まで脈々と流れこんでくるのが分るのだ。不思議な魔力だよ。それ自体純粋だ。さうして、疑ふべくもない一つの現実だ。見給へ」
 南雲二九太は立ち上つて一座を見渡しながら押入れの戸をサッとあけた。驚くべき光景。押入れの上も下もギッシリと四合瓶の乱雑な行列であつた。押入れの前に位置を占めてゐた私は思はず片手を差延して一本の空瓶を執りあげやうとした。二九太は急いで私を制した。
「待つたり。溲瓶の用に使つた奴があるから」
 彼は机の抽斗から香水の瓶をとりだして、異常に綿密な注意を払ひながら一小滴づつ床へ落した。婦人達はこらへきれずふきだした。
「君に会つたら話さうと思つてゐたことがあるのだ」と、長平は相変らずの沈んだ声で二九太に話しかけた。
「僕の下宿から四五軒隣りの煙草屋の娘だがね。十五なんだよ。三ヶ月ほど前までは普通と変らない娘で、僕も見覚えがあつたが、相当悧巧さうな顔立もととのつた娘だつたよ。それがね、或日発作を起してブッ倒れたと思ふと、それからは予言するやうになつたり、千里眼の現象が現れたり、夢遊病の症候が現れたりしたのだね、顔立や肢体にも急激な変化が起つたといふことだよ。霊媒の話だとか、田舎へ行くと神がかりの女の話はよくきくことで、高大業とかおきみ婆さんお直婆さんといふ類ひの特殊な婦人の異常能力に就いてはかねてきき覚えてゐたが、いづれも妖怪じみた老婆の話で若い娘のこの種類の話はきいたことがなかつたし、なにぶん四五軒隣りに起つた生々しい話なんでね。興味を覚えたところから、十日ほどまへ下宿の叔母さんが紹介してくれるままに、会つてみたのだ」
「ちよつと、待つた(二九太は突然性急に長平を制して、上体をぐッとのりだした)その娘がはじめて発作を起してブッ倒れた時の症候はどうだつたのだ? 精神的の打撃であれ、肉体的のことであれ、明確な刺戟の強い原因があつたのか? またブッ倒れてから嘔吐を催したとか、痙攣を起したとか、呼吸困難におちいつたとか、激しく咳きこんだとか、発作後は長らく消化不良に悩むやうになつたとか、或ひは当時最初の月経時に当つてゐたといふ事実はないのか?」
「さういふことは分らないが、発作の後は、動作に神経病患者通有の荒々しさが現れたとか、性的に大胆な不道徳を現すやうになつたとかいふ噂はきいてゐるよ」
 二九太は苛々した激しさで頷きながら、性急な語調でなほも質問をつづけた。
「その後時々全身が硬直するといふ特殊な発作を起すことはないのか? これが大切なことなのだ。分らないか? それから感覚が転置するといふ異常な生理現象が起きはしないか? つまり視覚が耳朶に移るとか、聴覚が顎とか掌へ移るとか、嗅覚が足の裏へ転置するといふことなのだ。たとへば目隠しをしても手紙を読むとか、眼の前へ棒を突きつけてもあまり驚きもしないが耳朶に棒を近づけると急に威嚇されたやうに身を引いて『盲目になりますよ!』と叫んだり、同じことが嗅覚に就いても、たとへば、香水を鼻の下へもつていくが何の反応もない、足の裏へ香水をやると急速に反応を起して微笑し、鼻孔をふくらましてせはしく呼吸を早めるといふやうな現象が稀に起りはしなかつたのか? それ以来癲癇の発作が起きるやうなことはないか? それから趣味が突然一変したり思ひもよらぬものに熟練をみせるやうになつたといふ現象はないのか? たとへば非常に高級な音楽に感動するやうになつたとか? 突然乗馬とか庭球が非常に巧みになつたといふやうな現象だ。又睡眠が不規則になつて、あるときは二日も三日も熟睡するといふことはないか? それから、これも重大なことだが、金とか鉛とか鉄とかといふ金属に対して、特に鋭敏な神経的反応がありはしないか?」
「どうもそれもよく分らないが、とにかく物を透視することは確からしいね。常にさういふ能力があるといふわけでもないらしいが、たとへばひとつの亢奮状態におちこむと異常能力を発揮するらしいのだ。当らないこともあるらしいよ。千里眼の現象なぞは半分適中しないやうな状態ださうだよ」
「然しそれだけで充分だ! それは明確に Catalepsy といふ神経病の一つなのだ。日本語では一般に全身強直といふ訳名を用ひてゐるらしいが正確なことは分らない。見給へ。(彼は催眠術《ヒプノチズム》に関する分厚な文献を数冊探しだして我々の方へ持つてきた)ほらこの本をごらん。それから、この本もごらん。ヒプノチズムに関する限り先づ冒頭乃至は、とにかく本論にかかる前にみんな一様に一応ふれてゐるのがこの Catalepsy といふ症候に就いてぢやないか。つまりヒプノチズムを科学的に説明づけることは不可能であるが、然し Catalepsy なる神経病が存在することによつても、ヒプノチズムと人体との密接な関係を否定することはできないといふのだ。ことほど左様にこの症候は異常なものだ。勿論科学的に説明することのできないものだ。然し確かに在るものなのだ。十四五歳の少女の春情発動期に起るのが普通だが、稀には年増女、時には十五六の少年にこの症候の起つた例が文献に載つてゐる。この書物を見たまへ。これはロンブローゾの最晩年の著作で『催眠並に心霊現象の研究』といふものだ。主としてユサピアといふ霊媒に就いての実験を報告し、霊魂の存在を実証しやうとしたものだが、多数の実験の結果、それらの現象を科学的に説明することは不可能であるが、然し死後の生命の実在をそれらの実験によつても否定することはできないとロンブローゾは言つてゐるのだ。この本を出版するに当つては、世人の誤解を惧れるあまり彼の友人達が揃つて反対したらしい。実際この本に対しては、ロンブローゾの最晩年の著作ではあり、耄碌した世迷言だと見る人が多い。然し科学では説明のできない精神現象の存在に注目せずにゐられなかつた彼の情熱は、耄碌どころか、最も高度の知的巡礼者の敬虔な姿を見出したやうに僕には思へるのだ。この秘密に飛びつくことが科学の一つの重大な任務ぢやないか。生きる人間にとつてこのことほど重大な問題は少いぢやないか。ところでロンブローゾがこの著作の冒頭に取扱つてゐるのだが、矢張り御多分に洩れず Catalepsy に就いてなのだ」
「僕はこの少女の話をきいた時、どういふものかまつさきに君のことを思ひだしたよ。君に教へてやつたら興味を持つだらうとも思つたのだが、然しそのことよりも、よく似てゐるなと考へたのだよ。これは冗談ぢやないのだ。君が少女ならその Catalepsy になりさうなんだよ」
「Catalepsy は必ずしも虚弱な人間がなるものではないのだ。むしろ健全な人、健全な両親の子供が思ひもよらずなる例が多い」
「さういふ厳密な話ぢやないよ。僕の言つてゐるのはただ感じのことだが、ところが僕がその少女にいざ会つてみると愈々奇妙なことがあつたのだ。君に話したいといふのはそのことなんだが。僕の会つた日は発作もなく特に亢奮状態でもなく普通の日で、多少動作に男のやうな荒つぽい感じがあるだけで、特別奇怪な行動もなかつたのだ。ところがふいにその少女が僕の顔を凝視めてね、急に叫んだものだよ。この人の友達に私の好きな人がゐるといふのだ。私の愛人がゐる筈だと、同じことを二度叫んだよ。僕はかなり面喰つたが、面喰ひながら咄嗟に思ひついたのが矢張り君のことだつたよ。その愛人は君ぢやないかと奇妙にかう、なにかグロテスクな実感をもつてさう思はずにゐられなかつたよ」
 私達は思はず同時にふきだしたが、なにかグロテスクな真迫力を思はず感じずにゐられなかつた。然し二九太は私達の笑ひにもそのグロテスクな真迫力にも全く無関心だつた。
「その娘は可愛らしい顔立か?」と、二九太は冷然と長平にたづねた。
「特に可愛らしいと言へないが、普通の愛くるしい少女には違ひないな」
「身体はふとつてゐるのか痩せてゐるのか?」
「見たところ弱々しい身体だよ」
「行つてみやう!」
 二九太は叫びながら忽ち荒々しく立ち上つた。
「これから早速行つてみやうぢやないか! 一見の値打があるのだ。僕は実験してみやう。暗示を与へてその反応を調べてみたいのだ。我々は早速行かうぢやないか!」
 もとより私も興味を感じはじめてゐた。私達も立ち上つて早速神経病少女を訪問することに一決したが「それにしても」と長平が二九太に向つて「大勢であんまり仰々しく見物といふ恰好もよくないから、君の大学教師の名刺に物を言はせることにしやう」と言ひかけると、二九太は抽斗を掻き廻して「この方が有効だらう」と日本心霊学協会の会員証を探しだした。
 外へでると、二九太は酒店で四合瓶を買ひもとめた。
「この種の神経病患者を亢奮状態に落とすには酒を用ひるのが最もいいのだ。彼等がアルコールの飲用によつても亢奮した場合には、一般に最も強度の被暗示性におちこむものだよ。たとへば水に触れしめて、これに火といふ暗示を与へただけで、火傷せしめることができるほど猛烈なものだ」
 二九太は四合瓶をさげ、酒店の主人から借り受けた盃を握つて店をでたが、急に立ち止つて呟いた。
「盃でチビ/\飲ませるのは容易ぢやないな。コップで飲ます必要があるな」
 すると彼は盃を返すかはりに突然鋪道へ叩きつけて粉微塵にくだいてゐた。それから荒々しく店内へ駈けこみ「僕の必要なのはコップの方だつた」と叫んでゐたが、酒店の主人が苦笑しながら差出すコップを攫ひとつて私達の方へ大股に戻つてきた。

 目的の家へ着くと、日本心霊学協会会員証を握りしめた長平が五名の者を待たしておいて交渉のために這入つていつたが、間もなく現れて万事都合よく運んだむねを報告した。私達は煙草屋の二階の一室へ通された。娘は階下の茶の間にゐたやうであつた。約十数分の後神経病少女はその母親にともなはれて私達の面前に現れたが、この会見は僅々数分をもつて有耶無耶《うやむや》の終末を告げ、私達の最も期待した二九太の実験はつひにその実現をみなかつたばかりか、少女の予覚的恋愛の興味津々たる的中の一幕もなく、夢想だにせぬ陰鬱な結果を生みだすこととなつたのである。
 私達の面前へ現れた少女はその訝しげな視線によつて先づ我々を交互に焼けつくやうに凝視め続けた。その眼は次第に大胆不敵な光りを加へ、その視線が私の顔に向けられた時には、恰も眼光が次第に膠着するもののやうな執拗な厚みを感じたほどであつた。少女は全く無言であつた。突然二九太は少女の前へ進んでいつた。コップに酒をつぎそれを突きだしながら激しい視線で少女を凝視めた。
「これをのんでごらん! 頭をよくする薬だよ。君はこれを呑まなければいけない!」
 恐らく二九太は自分に具はる暗示性を恃《たの》み、少女に具はる被暗示性を予想したうへ、暗示によつて飲酒を強制しうるものと信じたらしいのであつた。彼の暗示は然し全く効果がなかつた。少女の瞳は益々大胆な光をたくはえ、二九太の眼を微動だにせず凝視めるばかりで、返答の気配もなかつた。
 二九太は突然コップの酒をただ一息に自分自身で呑みほした。コップに再びつぎなほして、改めて少女の瞳
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