てのみ実在もし、同時にその言語に絶した恐怖をかざして私の心に挑みかかりもするのである。悲しい哉、私の心臓はこんな架空な果の知れない恐怖に対して堪えきれるほどの強大な魔力が授けられてゐない。怖ろしい想像を弄ぶこと、それに怯えて立ちすくむことを私は避けたい。私はこの物語の中に於て、私の心を解説するのが主要な目的ではなかつたのだ。私はむしろ書きたい多くの人物と、出来事と、それの雑多な関係の中に投げ入れられた様々な物の様々な姿を見直す必要があつたのだ。私はまづ私の一人の叔父に就いて語りださう。
 私の叔父(父の弟)、芹沢東洋は、日本画家として相当の盛名を博したこともある男である。このところ数年間は執拗な神経衰弱に祟られて全く絵筆を執らないが、神経衰弱の原因は御多分に洩れぬ情事問題を別として、絵画そのものに対しての本質的な疑惑、不安におちこんだことが、原因に非ず或ひは結果であるにしても、とにかく懊悩の一つの根幹をなしてゐる。懊悩の根柢をなすものの第三が私――然しこのことは改めて語り直さう。私は先づ、齢不惑を越えること七歳の中老人が、年甲斐もなく恋にやつれて、飄然と行方定めぬ一人旅に出立したといふ
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