ところから、この物語りを始めやう。
考へてもみたまへ。私は中年の恋を嗤ひはしないが、青白い夢を忘れていい筈の男が、恋に狂はず、恋のもつ感傷に狂ふといふのは滑稽な話だ。正面からの体当りはどんな愚かしい場合でも嗤ふ余地はないものだが、この老書生は悲恋の古風な詩人的哀愁に酔ひ歎いて、行方定めぬ一人旅に出やうといふのだ。この男が出立に際して私に残した却々《なかなか》の名科白は次のやうなふるつたものだが、私は放浪にでやうと思ふと口をきるその前から、今にも涙を流しさうな悲愴な面持をしてゐたものだ。私は放浪にでやうと思ふ、と、選りに選つて臆面もなく大きな文句を言ひだしたのも話のほかだが、その次に、旅にでた一二ヶ月は便りを書く気持にもなるまいと思ふが必ず安否を気づかつてくれるなときた時には、グイと笑ひを噛み殺さずにゐられなかつた。正直のところ、若しも私がとめさへすれば、叔父は旅行を中止したかも知れなかつた。私がとめることを予期した上で、流れる感傷の快さにつひふらふらと旅にでるなぞと言ひだした、勿論私はそこまで残酷に言ひ切れないが、心に起つた実際を振返つてみると、あの場の前後の行掛り上私は一応留めねば
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