伊吹山秋子の二人をとりまくやうな形にもなり、二人の噂は東洋を知る全ての人に伝はるほどになつてゐた。私はなぜか心穏かではなかつた。
さういふ一日、その日は授業のない日であつたが、秋子がふらりとアトリヱへ現れて、昨日忘れ物をしたんだけどと言ひながら暫くアトリヱにブラブラしてゐたが、やがて私をつかまへて、丁度切符があるんだけど音楽をききに行かないかと誘ふのであつた。それが全ての始まりであつた。私の見るところをもつてすれば、彼女に寄せた私の曖昧な思慕の情をいち早く看破した秋子は、却つて私を誘惑する気持になつたものとしか思はれないのだ。いはば私は受動的な形であつたが、ひとたび秋子との恋愛に希望を持ちはじめた私は、心中顛倒する歓喜の絶頂におしあげられたことを告白しなければならない。狡智に富んだ冷血漢であることを自認する私も、その時々の恋情には忘我の狂暴な状態をもつて、喜びもし悲しみもすることがあるのであつた。秋子は然し冷静であつた。私を様々な様式で待ちくたびれさせた。私はその頃絶望に沈んだ。
私達は月に二度以上の会合を持つことが殆んど無かつた。すくなくとも秋子はそれ以上の機会を私に与へやうとし
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