と気付かれた読者もあらうが、要するに、絵の制作は第二として、妻子の眼には怪しまれず毎日蕗子を訪れるためには、不便な郊外に独立したアトリヱを建てることが必要であつた! そして又当然アトリヱに居るべき筈の東洋が実は年中不在であつても、不時の急場に誰怪しまれぬ言訳けもしてくれ仕事の応接もしてくれる腹心の留守番が必要であつた。その腹心がほかならぬ私であるのは聊《いささ》か笑止の次第であるが、甥でもあり、孤独の叔父には年齢の差が問題でなく二十歳《はたち》頃から唯一のコンフィダンでもあつたところの私をおいて、この重任を果すべき人物は地上に二人と有りえない。当時私は文科大学を卒へたばかりで職業もなく、そもそも私は小学校を卒業するから専ら叔父の出費によつて生育したものである。
 当時芹沢東洋は絵画そのものの本質的な疑惑、或ひは思想的な懊悩によつて、絵筆を握る勇気さへ失はれがちな有様であつた。従而《したがつて》このアトリヱはアトリヱ本来の面目を果すことが極めて稀れで、専ら主人の不在によつて存在理由も生じるといふ奇妙な役割を果してゐたが、然し一週に三回の午前中、十名ばかりの若い娘に絵の手ほどきをするといふ
前へ 次へ
全125ページ中19ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング