きり聞くことができたために、一層の疲れが蕗子の失はれた表情の中に浮きたつてゐた。それ以上の私の言葉はもはや必要ではなかつたのだ。なぜといつて、それを咀嚼する根気もなく、何よりも全く理知の必要でない状態だつた。そしてただ本能によつて、私の強い抱擁だけを求めたい熾烈な希ひを、茫漠としたその蒼ざめた表情の中に、幽かながら根かぎりの努力をもつて表はした。私は蕗子を抱擁した。それから直ちに自動車に乗ると、蕗子をその家に送りとどけ、ついで私は重要な約束を果すために踵を返して横浜へ向つた。――

 芹沢東洋に三つの住所があつた。余談にわたるやうであるが、話を運ぶ都合上暫く脇道へそれて、芹沢東洋の為人《ひととなり》に就いて若干の言葉を費す時間を与へていただきたい。
 私の生家、栗谷川家は、越後平野の変哲もない水田によつて囲まれた五泉《ごせん》とよぶ小さな機業町に、代々機業を営んでゐた。景気不景気が同業を営む町全体に同じ浮沈を与へがちなこの町でも、栗谷川家はその代々の血管を流れる一様ならぬ投機癖のために、同じ浮沈を三倍にも五倍にも引受けるのが通例であつた。私の生家はもはや数代の昔から「ほらふきの家」と称
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