い人柄から、辛辣な諷刺皮肉を与へられずにゐられなかつたさうですわ」
「攻撃よりも感激にちかい印象ぢやありませんか?」
「あたしの言ひ方も悪いんですけど。(彼女は笑つた)あたしが感激してるんですわ。スタール夫人て、バンヂャマン・コンスタンを愛人にしてた人ですわね。アドルフの作者とナポレオン……でも、さうですわね、あたしもさう思ふんですの、スタール夫人はナポレオンに感動したに相違ありませんわ。深い理由はないんですけど、ただ女の直感だけで思ふんですわ。水のやうなナポレオンに恋したつて始まりませんもの。悧巧な女の感動は愛慕になるより反撥になりがちですわね。ナポレオンが気の利いたダンディなら反撥を愛の方向に変えさせるのは造作もないことなんですわ。そんなナポレオンならつまらない男でせうけど、ほんとの愛人は恋愛の中にゐやしませんわ。恋愛なんて愚劣で退屈ぢやありませんの。拗ねてみる、憎んでみる、愛さうとしてみる、とつまらなく苛々する、鋳型の中で馴合ひの芝居に疲れてゐるやうなものですわ。あたし愛さうともしないで、いきなり男を憎んでみたいと思ふことがありますわ。憎みぬいてみたいんですの。どこまで憎みぬかせるか、反撥し通せるか、女には自分の力がないんですもの、男の力男の冷酷さが憎み通させてくれるほかに仕方がないのですわ。ナポレオンは偉大ですわね。アドルフの作者と馴合ひの鋳型の中で人並みの感動だけは得やうとしたつて、スタール夫人は面白くも可笑しくもなかつたのぢやありませんの? みんなあたしの空想なんです」
 私達は通りへでた。
 私は木曾野に冷笑されてゐるやうに自らの立場を考へてみなければならないのかと思ひつかずにゐられなかつた。然し木曾野にそんな素振りはないばかりか、自らの言葉に対して気おくれとかうしろめたさを微塵も感じぬ颯爽とした清潔さが、恰も初々しい処女のやうに私の印象に残るのであつた。私は更に考へた。これはこの人のチョコレートであらうか? それともチエホフをして私の席にあらしめたなら、この婦人に向つてすら「いいえ、ナポレオンを語つてはいけません。貴女の大好きなチョコレートに就いて語りなさい」と言ふであらうか?
 私達は電車通りで左右に別れた。私と木曾野との交渉といへば後にも先にもただそれだけで、今語り得たやうにしか語ることができないのだ。それ以上に語るためには凡そ手掛りがないのであつた。さりとて私の印象の中に神秘的な影を宿して残るといつては余りにことが大袈裟すぎる。ありていを語れば、この婦人の人柄が甚だ私の好感に訴へるところがあるとはいへ、今語り得た以上にまで印象をまとめ、その気質や性格を突きとめる誠実なる情熱が私にとつては全く必要なものではなかつたのだ。

 私はアトリヱの中に秋子、あぐり、木曾野等三名の姿を認め、明らかに当惑せずにゐられなかつた。こんな時に貴方達の顔なんて思ひだしたくもなかつたのにと私の心は呟いてゐたが、然し秋子を見出したことの名状すべからざる感動が、私を激しく混乱させ、それが私の当惑を深かめさせもしてゐたのだ。
「僕は帰へらう」と長平は尻込みしながら沈んだ声で呟いた。私はあらはに狼狽して激しい視線でたしなめるやうに長平を凝視めながら、「もう暫く。せめて夜がくるときまで一緒にゐてくれ」と哀願せずにゐられなかつた。確たる理由はないのである。宿酔の朝に全く同じ神経的な恐怖であつて、別れることがたまらなかつた。
「別室でお話したいことがあるのですけど」
 女の群から木曾野が一人離れてきて私に言つた。二人は私の部屋へ這入つた。
「秋子さんのことなんですけど。秋子さんの姙娠のこと御存知でせうか? 御両親に隠し通せることでもありませんし、男が悪いんですの。くだらない因縁をつけてきてうるさいこともあるんですけど、そんなこと一々取り合ふ必要はありませんし、たいしたことぢやありませんわね。さう言つてしまへば別段理由はなくなるわけですけど、色々とうるさいものですから、赤ちやんの生れるまで静浦の別荘へ秋子さんをお預りしやうと思ふんですのよ。生れた赤ちやん誰かの子供といふことにして届けてしまへば八方無難で、何より事がおだやかに済みますわね。栗谷川さんはどうお考へになりますでせうか?」
「さうですね。それが何より無難でせうけど……」
 私は煮えきらなく呟いたが、なぜなら私の脳裡には一つの疑念が動きだしてきたからであつた。この婦人は私がまるで秋子の愛人であるかのやうに言つてゐる。まるで私に秋子の支配権があるかのやうにすら言つてゐるのだ。それを疑ぐらずに軽卒な返事を答へていいのだらうか? さういふ疑念もさることながらこの婦人の例の如く淡々とした歯切れのよい語調の裏には、最も繊細な叡智によつて包まれた微妙な揶揄が、私の野暮な疑念に向つて已にその複雑な伏線
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